わたしは以下の記事で「カタリ派が持ち出したとされる宝については、多額の金銭から聖杯に至るまで諸説あるが、古文書であったと想像したとしてもそうおかしなことではない」と書いた。

カタリ派の転生者としての霊的ヴィジョンが散りばめられたアーサー・ガーダム『二つの世界を生きて――精神科医の心霊的自叙伝』(大野龍一訳、コスモス・ライブラリー、2001年)を信頼するなら、それはカタリ派の起源を原始キリスト教に位置づけることができるような稀覯本と原稿であった可能性がある(253-255頁)。例えば、

  • ラテン語で書かれたコンソラメントゥム(救慰礼)
    これはカタリ派によって認められていた唯一の典礼であり、身体的な病気の者かしんからカタリ派聖職者になりたいと願っている者を対象に執り行われた。
    最後の典礼は1244年3月15日に執り行われた(カタリ派の人々が火刑にかけられて抹殺される前日)。
  • 福音書使徒書簡、章節に付けられた注釈
    これらの大部分を占めるのはパウロ書簡に関する注釈。
    コリント前書 (ラゲ訳):Wikisource
  • ベン・シラの知恵(旧約聖書外典中の最大文書。※ユダヤ教とプロテスタント諸派では外典、カトリック教会と正教会では旧約聖書に含める)に関する注釈
    シラ書:Wikipedia
  • ソロモンの知恵に関する注釈
    知恵の書:Wikipedia

ガーダムは書く。

キリスト教の源泉に関連するものは、多くの古典文献にも見られる。それはピタゴラスから、プラトンとプロティノスを経てポリュフィリィにまで広がっている。それはあまり有名でないイアンブリアカスやクリシッポスをも含む。これらの著作家に共通しているのは、それぞれの流儀でいずれも二元論者であったことである。ピタゴラスとプラトンは、誕生時、完全な魂が物質の中に閉じ込められ、その純化は輪廻を通じて成し遂げられると信じていた。プロティノスとその伝記作者のポリュフィリィは、カタリ派で言われているのと同じような創造の発出理論を表現していた。

以下の記事でわたしは「37年から100年頃に生きたユダヤの歴史家の伝記『フラウィウス・ヨセフス伝』(ミレーユ・アダム=ルベル著、東丸恭子訳、白水社、1993年)で見たように、ヨセフスの時代、ユダヤ教への改宗者は地中海世界、ローマでも増え続けていた。キリスト教は当初、そうしたユダヤ教に魅せられた異教徒にとって、与しやすいユダヤ教、割礼などのない敷居の低いユダヤ教と感じさせた側面があったようだ」と書いた。

また以下の過去記事では、イエスと関係があったと思われる「エッセネ派は(ブラヴァツキーのリサーチの結果が正しかったとしたらだが)ピタゴラス派といってよいくらいの集団で、また『熱烈な伝道者アショカ王以来の』仏教の影響が考えられる」と書いた。

ガーダムの描くカタリ派像は、わたしのこれまでのリサーチの結果と矛盾しない。

フラウイウス・ヨセフスは自著で当時のユダヤを三分していた三つの宗派について書いているが、前掲の伝記『フラウィウス・ヨセフス伝』に著者ミレーユ・アダム=ルベルの手でよくまとめられている。

それは福音書から受けるひじょうに一面的なユダヤ教の印象とは似たところのない各宗派の個性や違い、洗練された雰囲気などを伝えるものであって、それを読んだわたしはユダヤ教やユダヤ人に対する固定観念が打ち砕かれる思いがした。少しだけでもメモしておきたいのだが、長くなりそうなので、ノートを改めたい。

ここでわたしはフラウイウス・ヨセフスが『ユダヤ戦記』の中で書いた、エッセネ派の昇る太陽に祈りを捧げる習慣を再確認した。カタリ派は太陽崇拝と結びつけられることも多いからである。

それはマニ教と結びつけられがちだが、ユダヤのエッセネ派は太陽に対する祈りの時間を持っていたのだった。以下は『ユダヤ戦記 1』 (秦剛平訳、ちくま学芸文庫、2002年)278頁。

(エッセネびと)の神的なもの(「神的なもの」のギリシア語はト・テイオン)への敬虔は独特なものである。彼らは太陽が昇る前には世俗的な事柄についてはいっさい口にせず、太陽が昇るのを祈願するかのように、それに向かって父祖伝来の祈りをささげる。

ところで、中世ヨーロッパで、黄金よりも価値があり、これまで知られていなかったルートを用いた交易への期待を抱かせるものといえば、アレしかない。香辛料。

以下はJ・ギース、F・ギース『中世ヨーロッパの都市の生活』(青島淑子訳、講談社学術文庫、2006年)

とくに高価なのがサフランで、同じ重さの金と比べものにならないくらいの値段である。裕福な家の主婦なら、ごくわずかな量をこっそり蓄えているかもしれない。ショウガ、ナツメグ、シナモンなど遠くアジアから輸入される香辛料も、サフランと同じくらい高価だった。(66頁)

中世の食卓においては、甘味料は希少価値だった。(73頁)

中世ヨーロッパの人々が見たこともなかった器に入ったサフランに、シナモン、ジンジャー、砂糖をふんだんに使用した焼き菓子を子供たちに持たせられるなら、それは最強のアイテムになるだろう。

中世の彼らは高い技術で商品化された香辛料や砂糖がうなるほどある遠い異国を空想してみる。しかもその異国は子供を使節として立てることが可能なくらい、航海術が発達しているらしいとなると――。

交易の条件は、第一に洞窟に囚われている魔女を解放すること。 と最後の賭けに出る紘平(彼は、自分の国は「日いづる国」であり、信仰の自由と平和を何より尊ぶ国だと説明した)。