『ゾロアスター教』について読むとわかるが、遊牧民族が犠牲式を行うのは、食べるためだ。

わたしたちは、自分の知らないところで屠殺された動物を平気で食べている。

インド人とイラン人が分かれる前の原インド・イラン語族は、屠殺という行為を神的な行為にまで 高めなければ、生き物が殺せなかった。食べることなど、できなかった。

古代、世界中が神々に地のめぐみを供物として捧げてきた。分業が進んでいなかった時代に機能していた敬虔さ、正常な感覚だろう。

戦争。次いで、人間同士殺し合う行為を犠牲式にする宗教行為が現われた。

図式的にわかりやすいのはキリスト教だが(イエスは屠られた仔羊以外の何ものでもなかろう)、世界中で――わが日本でも――神に戦死者を捧げる儀式が執り行われるようになる。

しかし現代。戦争すら分業となり、代替戦争や後方支援などで殺人行為に無感覚な人間がつくり出され、平気で他国人を殺して資源などの地のめぐみを奪ってそれを享受しながら、無垢な人間の如く、平和を声高に訴えたりしている。

ゾロアスターの宇宙創成論は、先史時代――青銅器文化の時代――の人間が考えついたとはとても思えない高度さだ。

ブラヴァツキー夫人のいう、古代には人類の教師役を務める神的な存在(自然現象を神格化した神々とは違う。人間のOBとしての神的存在)が人間たちの間を歩いていたというようなことでも想定しなければ、歴史的な位置づけの仕様がないではないか。

ゾロアスターの教えにある最後の審判(大復活のあとに行われる)について、メモしておかなければ。

ゾロアスター教 三五〇〇年の歴史 (講談社学術文庫)
メアリー・ボイス (著), 山本 由美子 (翻訳)
ISBN-10 : 406291980X
ISBN-13 : 978-4062919807
出版社 : 講談社 (2010/2/10)

といっても長すぎるので結論のみ、以下にメアリー・ボイス『ゾロアスター教 三五○○年の歴史』(山本由美子訳、講談社学術文庫、2010年)から。

 ゾロアスターはこのように、個々の審判、天国と地獄、肉体のよみがえり、最後の大審判、最結合された魂と肉体の永遠の生ということを、初めて説いた人であった。これらの教義は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に採り入れられて、人類の宗教の多くにおいてなじみのある項目となった。しかし、これらのことが、充分に論理的一貫性をもっているのは、ゾロアスター教においてだけである。
 というのは、ゾロアスターは、肉体を含む物質的な創造が善であることと、神の正義の揺るぎない公平さとを合わせて主張したからである。彼によれば、個人の救済は、その人の考えや行動の総量によるもので、いかなる神も、同情や悪意によってこれを変えるよう介入することはできない。そのような教義の上に、「審判の日」があると信じることは、充分に畏怖すべき意義をもち、各人は自分の魂の運命について責任をとるだけでなく、世界の運命についての責任も分かたなければならないとされた。ゾロアスターの福音は、このように高尚で努力を要するものであり、受け入れようとする人々に、勇気と覚悟を要求するものであった。