創作ノート - 不思議な接着剤

執筆中の児童小説「不思議な接着剤」のためのノートです。 リンク、転載を禁じます。

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このところのわたしは体調が悪いとはいえ、あんまりの怠け者なので、これではいけないと思い、児童文学作品『不思議な接着剤』の資料に新しく加わったロドルフ・カッセル他編著『原典 ユダの福音書』(日経ナショナル ジオグラフィック社)をいくらかでも読むことにした。

『原典 ユダの福音書』では最初に『ユダの福音書』の翻訳が紹介され、それに続いてロドルフ・カッセル、バート・アーマン、グレゴール・ウルスト、マービン・マイヤーの小論が収録されている。

『ユダの福音書』の英訳は、ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー、グリゴール・ウルスト、フランソワ・ゴダールの共同作業で進められたとのこと。
ロドルフ・カッセルはコプト学研究の権威。マービン・マイヤーは聖書・キリスト教研究者で、ナグ・ハマディのテキストを中心に研究。グリゴール・ウルストはコプト語やマニ教関連の研究が専門。フランソワ・ゴダールはコプト語、古代エジプト民衆文字の研究。

夕飯作りに入る時間までに読破するつもりでいたが(いざとなったらわたしには斜め読みができる特技があるが、それでは消化するまでにはいかない)、『ユダの福音書』を読んで(それも後半部は斜め読みになった)、爆睡してしまった!

何というか、これは……欠落部が多い上に、この濃厚なムード……『ユダの福音書』の解読チームにマニ教の専門家が加わっていることがよく呑み込めた。マニ教はほとんど知らないけれど、これは何ともマニ教臭い。臭いといっては失礼だ。マニ教の芳香がする、といい換えよう。その芳香を嗅ぎ、たちまち睡魔に襲われたというわけだった。何というか、意味のよくわからない者にとっては夢幻的に感じられるのだ。

『マリア福音書』ではマリアとペトロ、アンドレアス、レビといったイエスの使徒、というより弟子たちの言動が生き生きと描写され、イエスとマリアの邂逅は仏教問答にも似た会話を包む格調高い師弟愛的ムードのうちに描出される。ペトロの怒りの深さ、マリアの嘆きと訴えは、いずれも印象的で、息詰まるようなムードを湛えている。イエスの教えを受けるマリアの様子からは、マリアの律儀さ、真摯さが伝わってきて胸を打つ。『マリア福音書』は、マリアがイエスの教えを受けた、その内容を中心に据えて、イエス亡きあとの内輪揉めをリポートした作品という感じがする。

しかし『ユダの福音書』では、イエスは快活に笑ったりはするけれど、人物の描き分けがさほどできているとは思えず、イエスに語らせて宇宙論を述べることが執筆者の第一の目的であったような感触。まあしかし、これは斜め読みから受けた印象にすぎない。

ここへ来て、グノーシスの定義の複雑さ……その定義をめぐって解釈が錯綜してきたことを改めて考えさせられた。グノーシスが何なのかを復習しておく必要を感じたわたしに頼りになるのは、Wikipediaとブラヴァツキー夫人だ。

で、『神智学の鍵』でグノーシスの定義の核となる解説を読み、グノーシスについて書かれた箇所を『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成元年)から拾っていると、メモしておいたほうがよいと思える箇所があった。

『ピスティス・ソフィア』を例にとって、グノーシス派が《キリストス》という用語をどういう意味で使用したかに注意を呼びかけた箇所。コプト語の原稿では誤訳あるいは改竄があるようだ(367頁註41)。グノーシス派がエホバを善ではなく悪の原則と見なしたことの解説(452頁)。

これまで読む勇気のなかった本を図書館から借りた。

原典 ユダの福音書
ロドルフ・カッセル (編集), マービン・マイヤー (編集), グレゴール・ウルスト (編集), バート・D・アーマン (編集)
出版社 : 日経ナショナルジオグラフィック社 (2006/6/2)

ユダについて考えるのは気が重い。これはわたしに限った現象ではないだろう。イエスの使徒で、会計係を務めていながら、金銭欲のために口づけをもってイエスをローマに売り、その後自殺した。

不吉さがつき纏う人物であるが、最後の晩餐と共に甦るイエスとユダの遣りとりは謎めいていて、舞台劇のような不自然さを感じさせる。

著書の「はじめに」に、ユダという名前は「ユダヤ人」「ユダヤ教」と結びつけられてきたとあるが、そう、そういう含みも感じられるだけに、ユダについて考えることは何とも気が重く、考えることを先延ばしにしてきたところがわたしにはあった。

諸々の忌まわしいイメージの纏わる裏切り者ユダと福音という採り合せが、これまた奇怪に映る。

ところが、イエスに関するリサーチを行うと、イエスの磔刑は演出を伴うある儀式であって、ユダはその進行を助けたとか、イエスは実際には死ななかったといった説が出て来るではないか。

わたしにはにわかには信じ難いそれらの説の根拠となったのは、おそらくグノーシス系の福音書だろう。本文の読書に入る前に、「はじめに」を読んだ。そこにはグノーシスについて、また、『ユダの福音書』についてわかりやすく述べられた箇所があるので、長くなるが、以下にメモしておきたい。

『ユダの福音書』の視点は、新約聖書の四福音書と多くの点で異なっている。新約聖書に収録されている福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つだけだが、キリスト教の黎明期には、このほかにもさまざまな福音書が編まれた。
 それ以外に、全部または一部が現存している福音書も、トマス、ペテロ、ピリポ、マリア、エビオン派、ナザレ人の各福音書のほか、ヘブル人の福音書、エジプト人の福音書など無数にあり、初期キリスト教には多様な解釈と立場が存在していたことを物語っている。そしてこの『ユダの福音書』もまた、イエスの人となりと、あるべき信仰の形を後世に伝えるために初期キリスト教徒が記したものだ。
 『ユダの福音書』は、いわゆるグノーシス派の福音書に分類される。おそらくすでに存在していた原典や発想を下敷きにして、二世紀半ばまでに編まれたと思われる『ユダの福音書』には、グノーシス(gnosis)、すなわち「知識」を重んじる宗教思想が反映されている。「知識」とは神秘的な知識、神の知識であり、神と自己の融合である。この宗教思想は一般に「グノーシス」と呼ばれるが、この言葉の使いかたをめぐっては、古代世界から議論が絶えず、今日でも研究者の間で論争が続いている。神とはおのれのなかに存在する魂であり、内なる光であるとするグノーシスの立場は、仲介者ぬきで直接神とかかわろうとするその自由な発想ゆえに、初期キリスト教の司祭や教父からうとんじられ、異端狩りの対象になった。異端を論じた知識人の著作は、グノーシス主義は邪悪な思考をもてあそび、いまわしい活動にふけっているという非難の言葉であふれている。
 こうした攻撃に対し、グノーシス主義的な立場の『ユダの福音書』には、当時勢力を伸ばしつつあった正統派教会の指導者や信者こそ、あれこれ良からぬ行動をしているという記述がある。『ユダの福音書』によれば、グノーシス派を敵視するこうした正統派のキリスト教徒は、地上世界を支配する神の小間使いに過ぎず、彼らの生きかたはその神の容赦ない支配の仕方にそっくりだというのである。
……(略)……
 『ユダの福音書』最大の読みどころは、イエスが宇宙の神秘についてユダに教える場面だろう。グノーシス主義の福音書はどれもそうだが、イエスはそもそも教師である。智恵と知識を明かす人物であり、世界の罪を背負って生命を落とす救済者ではない。グノーシス主義によれば、人間が抱える根本的な問題は、原罪ではなくむしろ無知である。それを解決するには、信仰よりもむしろ知識が必要だ。イエスは無知を根絶し、自己と神の真意に通じる知識を、ユダと、『ユダの福音書』の読者に与えた。
 『ユダの福音書』のこうした啓示的な内容に、現代の読者は違和感を覚えるかもしれない。セツ派グノーシス主義が教える啓示は、欧米で長く受け継がれてきた哲学や神学、宇宙論と大幅に異なるからだ。今日キリスト教信仰の主流となっているのは、ローマ・カトリック教会だが、アルゼンチンの作家ボルヘスはグノーシス主義を論じた文章のなかでこう書いている。
「もしローマではなくアレクサンドリアが覇権を握っていたならば、ここで概略を紹介した突拍子もない話の数々も、一貫性があって威厳にあふれた正統的な逸話ということになるだろう」
 しかしキリスト教会の勢力争いで勝利したのは、アレクサンドリアをはじめとするエジプトのグノーシス信仰ではなかった。そして二~三世紀に吹き荒れた神学論争のなかで、『ユダの福音書』も敗北する。主流派とは異なる解釈にもとづいた、今日の目で見ると風変わりな発想が記されたこの福音書はすたれていった。
 だが、『ユダの福音書』のなかでイエスがユダに与えた啓示は、背後に洗練された神学理論と宇宙論がある。啓示それ自体には、キリスト教的な要素はほとんどない。グノーシス主義の発展の研究者の理解が正しいとすれば、啓示に込められた発想は、紀元一世紀あるいはもっと昔に、古代ギリシャやローマの思想を柔軟に受け入れていたユダヤ系の哲学者やグノーシス主義者の系統に行きつく。

『マリア福音書』で見た同じ思想が『ユダの福音書』でも語られているようだ。また「はじめに」によると、『ユダの福音書』のイエスはよく笑うそうだ。『マリア福音書』ではマリアとぺトロの対立が生々しく描かれているが、グノーシス系福音書では、人物が生き生きと描写されているという特徴があるようである。

「はじめに」で概略されたイエスの教えには、以下のノートで書いたブラヴァツキーの言葉を連想させるものがある。

2012年01月11日
№80 ピュタゴラスとエッセネ派の関係。貞節の勧告。
https://etude-madeleine.blog.jp/archives/9067602.html


ところでブラヴァツキー夫人は、エッセネ派というのはピュタゴラス派で、死海の畔に居を構えていた仏教徒(プルニウス『博物誌』)の影響を受けたという。そして、その影響によって思想体系が完成されたというよりも、むしろ崩れていったと述べる。

イエスがエッセネ派の影響を何らかのかたちで受けていることは、これまでのリサーチからすると間違いないと思う。ということは、エッセネ派を知るには、まずピュタゴラス派について知らなくてはならない。

また、もしイエスが、ペテロなど歴史の表舞台で活躍した弟子達や大衆にはたとえ話で語り、高度な教えは専門的な言葉でマグダラのマリアに伝え、それがキリスト教グノーシス文書になったのだとしたら、キリスト教グノーシス文書にはピュタゴラス派(エッセネ派)と仏教の教えがちょっと(かなり?)崩れたかたちで表現されているはずだ。

ブラヴァツキー夫人は『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成元年)の序論で、ボルヘスの言葉とも響き合う、以下のような見解を述べる。

コンスタンティヌス時代は歴史の転換期であった。つまり、西洋が古い宗教を絞め殺し、その死体の上に築かれた新しい宗教を支持することに終わった最大の斗争の時代であった。その時から、後世の者達が大洪水やエデンの園よりもっとさかのぼって、太古を覗くことは、公正、不公正なあらゆる手段をつくして、容赦なく禁じられはじめたのである。あらゆる発行物は妨げられ、手に入れることができる記録はすべて破り棄てられた。だがこのようなずたずたにされた記録の中にさえ、源となる教えが実際にあるということを示すに足る証拠が残っている。いくつかの断片が、その物語を語るために地質的、政治的な大変動に耐えて生き残って来たのである。そして生き残った断片はみな、今の秘密の智慧が、かつては唯一の源泉、絶えることなく流れ出る永遠の源泉であり、そこから流れ出る小川、つまりあらゆる国民の後世の宗教の最初のものから最終のものまですべてに水を与えるもとの泉であることを示している。仏陀とピタゴラスではじまり、新プラトン派とグノーシス派に終わるこの時代は、頑迷と狂信の黒雲によって曇らされることなく、過ぎ去った幾時代もの昔から流れ出た輝かしい光線が最後に集まって現れた、歴史の中に残された唯一の焦点である。

 本文を丁寧に読んでいこう。 

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