創作ノート - 不思議な接着剤

執筆中の児童小説「不思議な接着剤」のためのノートです。 リンク、転載を禁じます。

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一昨日は、これまでの部分の手直し[1]と、子供たちが鍾乳洞へ入る部分のラフ・スケッチ[2]。

また、『黄金伝説』から推理できるマグダラのマリアの二つの運命、そしてモーセについて気になることがあり(特にフロイトのモーセ、エジプト人説)、調べ始めた。
黄金伝説 2 (平凡社ライブラリー)
ヤコブス・デ・ウォラギネ (著)
ISBN-10 : 4582765785
ISBN-13 : 978-4582765786
出版社 : 平凡社 (2006/6/8)

フランスにやって来たキリストの弟子たち―「レゲンダ」をはぐくんだ中世民衆の心性
田辺 保 (著)
ISBN-10 : 4764265672
ISBN-13 : 978-4764265677
出版社 : 教文館 (2002/4/1)

田辺保先生の『フランスにやって来たキリストの弟子たち』(教文館、2002年)から、以下に抜粋。

レンヌ=ル=シャトーをめぐる伝説では、この村は、マグダラのマリアがフランスに上陸後、移り住んだところとされています。実は、マグダラは、イエスの妻であって、二人の間には少なくともひとり以上の子どもがあったとされていわれます。南フランスのユダヤ人共同体にまぎれこんでマリアは子どもを育て上げ、その子孫が五世紀には、北方から進出してきたフランク族の王族のある者と結ばれて、メロヴィング朝(フランス最初の王朝)を創始したのだそうです。

この伝説と、ヤコブス・デ・ウォラギネ『平凡社ライブラリー 578 黄金伝説2』(前田敬作・山口裕訳、平凡社、2006年)におけるマグダラのマリアと領主夫妻の間に起きる長々とした1件を重ね合わせてみると、以下の二つのストーリーが考えられる。

  1. イエスの死後、ちりぢりになった弟子たちのうち、マグダラのマリア派ともいうべき一行は、何らかの陰謀により舵のない船に乗せられた。その件に、ペテロが関係している可能性あり。マリアはイエスの息子である男児を連れ、身重だった。船は嵐に遭う。マリアは航海中に出産する。母子共に死亡か? マリアの遺体は一旦岩の島に安置されたあと、サント=ボームの洞窟へ移された。遺された男児はマルセイユの領主夫妻に引きとられた。
  2. マリアは、イエスの2人の子供たち――男の子と赤ん坊――を連れていた。マリアたち一行はマルセイユに漂着する。領主夫人が出産中に死亡した。胎児と共に。マリアは領主夫人の代わりとなって、その地に溶け込み、子供たちを育て上げた。

整合性があるのは1だ。2だと、マリアのサント=ボームの洞窟における30年間もの隠遁の説明がつかない。マリアがイエスから受け継いだ高度な教え(カバラの起源となったエッセネ派の教え)は、マリアに同行したイエスの弟子たちが広めたと考えればよい。それが中世に表面に出てきてカタリ派といわれた。これはあくまで仮説、というより単なる想像の段階だが。

一昨日、図書館から再々度借りてきたフラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌 1』(秦剛平、ちくま学芸文庫)をざっと復習した。

モーセが描かれているからだが、旧約聖書とはムードが違う。ヨセフスは、聖書外の資料を含む豊富な資料のみならず想像力をも駆使して、膨大な歴史的断片を自在に編集しているのだ。

訳者によると、「当時のユダヤ人たちは『聖書』を決して固定化された堅苦しい文章とは見なしていなかったこと、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は別にして、彼らは聖書の物語を自由に読み、さまざまな仕方で解釈したり、想像力を駆使して細部を埋めたりしてそれを再話したこと、そしてその論より証拠がヨセフス」だという。

その後も、このような風通しのよさがあったからこそ、異端とされる『マリアによる福音書』のような沢山のグノーシス文書も生まれたというわけだ。アレクサンドリア学派のことを考えてみても、学問が盛んであれば、様々な説が生まれるのは当然だろう。

ヨセフスは、モーセの若い頃のあやまち(エジプト人がユダヤ人を苦役させ、打っているのを見た若きモーセは、エジプト人を打ち殺して砂に隠した)を書いていない。金の子牛の話も出していない。

ヨセフスの資料の取捨選択には、当時の異教徒たちのモーセ像が、ユダヤ人たちの「聖なる文書」にもとづかない間接的な歪曲されたものであったため、そうした事情が考慮されてのことらしい。

3歳のモーセがどんなに美しかったか、また魅力的だったかについて、ヨセフスは見てきたように描いている。

旧約聖書で読むモーセには興味がわかなかったが(遠い時代、遠い国の荒々しい爺さんという印象)、ヨセフスの描くモーセは生き生きとしていて、峻厳美に満ちている。

モーセが指揮して造営された幕屋の意味ある造形と壮麗さ! 旧約聖書における単調な材料の羅列からは見えてこないものが見えてくる。

最初の曙光が差し込むように東に向けて立てられた幕屋の聖所内は、宇宙の姿を模してあるそうだ。

聖所全体は聖なる場所と呼ばれ、四本の柱の奥の祭司が入場できない場所は至聖所と呼ばれた。そこに吊された垂れ幕こそはこの上なく美しいもので、地上に咲き誇るあらゆる種類の花で覆われ、また、装飾に役立てば、生き物の形以外のいっさいの意匠が織り込まれていた。

燭台について。

燭台は、蕾、百合、ざくろ、ともしび皿等、台座から上端にかけて70の部分からつくられていた。それは燭台が太陽と惑星の活動領域の数を構成するようにつくられていたからである。燭台の支柱には等間隔の7本の枝に、惑星の数を想起させる七つの燭がついており、燭台が斜めにおかれていたので、七つの燭は南東を向いていた。

さらに。

またモーセがテーブルに12個のパンを置いたのは、1年が12か月に分かれていることを示すためである。また、彼が燭台を70の部分と七つの燭でつくりあげたのは、惑星の10度の領域と七つの惑星の軌道から暗示されたことを示している。
 そして4色の糸で織られたものは、自然界の4元素がどのようなものであるかを示す。すなわち、亜麻布の色は大地を――亜麻は大地に自生する――、紫は海を――海は魚の潜血に染まる――、青は大気を、深紅は火を表わしている。 

この辺りの描写からはエジプト様式が薫るような気がする[3]。秘教の存在を感じさせるものであり、どう考えてもこれはまぎれもないカバラの序曲ではないか。

神の箱についての描写には息を呑む……。勿論、中に入っているのは最高のお宝、神ご自身の手になる十戒の言葉が五つずつ刻みつけられた2枚の石版だ。

そしてクライマックス。神が客人として幕屋に滞在されたのだ。神の顕現は雲で表現されている。

すなわち神は彼らのもとへ来て聖所に客人として招待されたが、そのときの神の臨在の模様は次のようなものであった。空が晴れているのに幕屋の聖所だけが闇になり、やがて一団の雲がそれを覆った。だがその雲は、冬の嵐に見られるような濃くて深いものでも、見透せるような薄いものでもなかった。しかし、そこから滴る繊美な露のしずくこそ、神の臨在を願い神の存在を信ずる人びとには、明らかな一つの証しであった。

それにしてもこの神迎えの形式は、神道の儀式――大嘗祭――を連想させられる[4]。

ヨセフスのものは、創世記からして旧約とは違う。彼は随所に「モーセの語るところによれば」「モーセは語りはじめる」「モーセはさらにこう語っている」という語り手が誰であるかに注意を向けさせる言葉を挿入するのだ。旧約だけを読むと、それはまるで天から降ってきたといわんばかりの威圧感、古めかしさなのだが。

エバについて、以下のようなことは聖書には書かれていない。

ヘブル語で女は「エッサ」と呼ばれる。そして、この最初の女は、「すべての生き物の母」を意味するエバという名が与えられた。

ヨセフスがイエスと同時代の人であることを考えれば、彼の執筆姿勢はあまりにも現代的に思えるが、訳者解説によると、登場人物にスピーチさせて「そのときその場の雰囲気をリアルな仕方で盛り上げる手法は、ヘレニズム・ローマ時代の歴史記述がトゥキューディデースから継承したもの」だそうだ。

ところで、ヨセフスが浄・不浄の規定に言及した理由について、訳者解説に「当時の世界の人びとが、モーセとその同胞は、エジプト人であったとか、しかも彼らはエジプトの地でレプラに罹り、そのためエジプトを追われたのだと信じていたからである」とあり、ここはフロイトのモーセはエジプト人であったという主張との関連から、ちょっと考えさせられた。

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)
ジークムント フロイト (著), Sigmund Freud (原著), 渡辺 哲夫 (翻訳)
ISBN-10 : 4480087931
ISBN-13 : 978-4480087935
出版社 : 筑摩書房 (2003/9/1)

うーん。『不思議な接着剤』を進める一方で、モーセの謎に迫り、古代エジプトの歴史を垣間見なくてはならなくなった。『ゾロアスター教』もまだ完読できていない。

ヨセフスの『ユダヤ古代誌』は購入することにした。あまりにたびたび図書館から借りるのも悪いので。

 全巻となると、文庫版といっても少々値が張るが、『ユダヤ古代誌』はヨーロッパのキリスト教徒や知識人たちに聖書の次によく読まれ、「小聖書」「書き改められた聖書」と評されるほどの本らしいので、持っておいても損はないだろう。 

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[1]ボンドが登録商標であることを知ったので、作中のボンドを接着剤に改めた。アルケミーボンド株式会社というメーカー名については、これで問題ないと思う。
   追記:アルケミー化学工業株式会社に変更(2014/07/08)

[2]白ネコの再出現地点で迷う。白ネコは過去と現在、そしておそらくは未来をも行き来する存在で、子供たちのガイド役となる役割を果たす。電器店の倉庫内で、ちらりと姿を見せ(暗闇で目が光る。子供たちにはネコを探し出せない。「ネコだ。目が光っている。動いた。あっちだ。いない。いつ、入りこんだのだろう?」)、その後鍾乳洞内で道案内をするかのようにまたネコが姿を見せる。

[3]H・P・ブラヴァツキーは『神智学の鍵』(神智学教会ニッポン・ロッジ、昭和62年初版 - 平成7年改版)用語解説で、「エジプト人とカルデア人は最古の占星術の信奉者に数えられる」という。カルデア≒バビロニア。

[4]吉野裕子『天皇の祭り』(講談社学術文庫、2000年)

黄金伝説 1
ヤコブス・デ・ウォラギネ (著), 前田敬作 (著), 今村孝 (著)
出版社 : 平凡社 (2006/5/15)
ISBN-10 : 4256191054
ISBN-13 : 978-4256191057

今日中に図書館に返してしまいたいので(ヨセフスの『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代誌』を借りるために)、中世に著わされた聖人伝説集『黄金伝説』にマグダラのマリアがどう描かれたか、メモしておきたい。
以下はヤコブス・デ・ウォラギネ『平凡社ライブラリー 578 黄金伝説 2』(前田敬作・山口裕訳、平凡社、2006年)の著者紹介から。

ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230頃―98)
ジェノヴァ近郊ヴァラッツェの生まれ。
ドミニコ会士。ロンバルディア管区長を経て、ジェノヴァ市第8代大司教(1292―98)。
神話文学としての聖人伝説は、カイサリアの司教エウセビオスの『教会史』(4世紀)を嚆矢とするが、多くの聖人伝作者の手によって、さまざまな異教伝承や土俗信仰を摂取しつつ、福者ヤコブス・デ・ウォラギネが集成した『黄金伝説』においてみごとに結実する。
中世において聖書とならび、もっともひろく読まれた書物として、キリスト教的ヨーロッパの教化に役立ち、造形芸術のもっとも重要な霊感の泉となった。
書名の〈黄金〉は同時代人が冠した美称。
他に『ジェノヴァ市年代記』(1297)、『説教集』、『マリア論』などが知られる。

以下は、前掲書「九一 マグダラの聖女マリア」から。

マリア(Maria)とは、〈苦い海〉を意味する。あるいは〈明るく照らすひと〉または〈明るく照らされたひと)という意味である。これによって、マリアが選んだ最良のものが三つあったことがわかる。すなわち、悔悛あるいは痛悔、内面の観想、天国の栄光の三つがそれである。

マリアが選んだ最良のもの――つまり、マリア特有の性格として挙げられた第一のものは、人口に膾炙したマグダラのマリア像――彼女は娼婦であったとされている――の反映といってよい。注目すべきは、第二の《内面の観想》だろう。

この《内面の観想》については、訳注がある。以下。

マグダラのマリアは、中世初期には観想生活の象徴とされた。『ルカ』10の39以下の記述から内省的観想的な性格と考えられたのであろう。悔悛者の模範と見なされるようになったのは、中世後期のことである。

これは驚くべきことである。瞑想者としてのマリア像が、娼婦像としてのマリア像に先んじているのだから。ここで、『マリアによる福音書』を思い出しておきたい。マリアがイエスの教えを語る場面で、彼女は次のように話し出す。以下は、岩波書店版『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』)からの抜粋。

「私は一つの幻のうちに主を見ました。そして私は彼に言いました。『主よ、あなたを今日、一つの幻のうちに見ました。彼は答えて私に言われました。『あなたは祝されたものだ、わたしを見ていても、動じないから。というのは叡知のあるその場所に宝があるのである。
 私は彼に言いました、『主よ、幻を見る人がそれを見ているのは、心魂〈か〉霊(か、どちらを)〈通して〉なのですか』。
 救い主は答えて言われました、『彼が見るのは、心魂を通してでもなければ、霊を通してでもなく、それら二つの真ん中に〔ある〕叡智、幻を見る〔もの〕はそ(の叡知)であり、そ(の叡知)こそが……

残念ながら、このマリアの会話には欠損が見られるのだが、マリアはここで瞑想の技法を語っているといってよい。後にパウロがイエス体験を、あなた任せ的、盲目的……神秘主義的にいってしまえば、霊媒的にしたのと比較すると、対照的である。

ブラヴァツキー夫人は人間の本質を七本質に分類する。アストラル体(肉体の原型。プラーナの媒体)、プラーナ(気。生命原理)、カーマ(欲望)、低級マナス(カーマ・マナス。低級自我)、高級マナス(ブッディ・マナス。高級自我)、ブッディ(霊的魂)、オーリック・エッグ。
マリアの話のなかで、イエスのいう叡知というのは、高級マナスのことではないかと思われる。

ブラヴァツキー夫人によると、カーマすなわち欲望を全て殺し、これを上向きの清浄な欲求に置きかえることができたら、七重の構成体が変容し、高級三つ組は浄化した低級マナスを受け入れて高級四つ組になるという。死すべき四つ組はカーマが消えるため、低級三つ組となる。これが解脱した人の様子だという。

ブラヴァツキー夫人は、高級本質で思考を行う人達は少数派といっているが、マリアは、高級本質で観想することの重要さを(おそらくは生前の)イエスから教わったのだろう。そして、マリアという女性は、教わる以前にそれを自ら行いうる優れた弟子だった。マリアの話から推測すると、生前のイエスはマリアに瞑想の指導を行っていたと考えられる。

ナグ・ハマディ文書が伝えるマリアのこうした志向性は、『黄金伝説』が伝える30年間の隠遁生活(場所は訳註によると、マルセイユ近郊にあるサント=ボームの洞窟)と響き合うものがあるだけでなく、中世初期には、彼女は観想生活の象徴とされていたというのだ。

教父たちの聖書解釈によって『ルカ』7の37以下の〈罪の女〉およびベタニアのマリアと同一視されるようになったためと考えられる。この間違った同一視は、伝説化の恰好の温床となり、10世紀イタリアでエジプトのマリアの伝説から借用した新しい伝承が成立、それがフランスに入り、12世紀プロヴァンス地方で痛悔(あるいは贖罪)する隠修女としての伝説が完成した。本章の物語は、上の同一視にこのプロヴァンスの伝説を結合したものである。……(略)……なお、このような伝説化は、西欧でのみおこなわれ、東方では、早くからイエスに随伴した婦人たちのひとりとして知られているだけである。

マグダラのマリアは、〈罪の女〉、ベタニアのマリア、エジプトのマリアと一緒くたにされてしまったようだ。
次に、マグダラのマリアの出自に関するものを『黄金伝説』から抜粋しておきたい。

マグダラのマリアは、〈マグダラ城〉とあだ名されていた。門地は、たいへんよかった。王族の出だったのである。父の名はシュロス、母はエウカリアといった。弟のラザロ、姉のマルタとともに、ゲネサレト湖から2マイルのところにあるマグダラ城とイェルサレム近郊のベタニア村と、さらにイェルサレム市に大きな地所を所有していた。しかし、全財産を3人で分けたので、マリアはマグダラを所有して、地名が名前ともなり、ラザロはイェルサレムを、マルタはベタニアを所有することになった。

マグダラのマリアは王族の出で、マグダラの領主だったという。彼女が、イエスの死後14年目に南フランスに船で漂着した経緯について、以下に抜粋。

われらの主がご昇天になり、ステパノがユダヤ教徒たちの石打ちによって殉教し、ほかの弟子たちがユダヤの地から追われたあと、主のご受難からかぞえて14年目、弟子たちは、さまざまな国に出かけていって、神の言葉を宣べ伝えていた。そのころ、主の72人の弟子たちのひとりの聖マクシミヌスは、使徒たちと行動をともにしていた。聖ペテロは、マグダラのマリアをこのマクシミヌスの手にゆだねた。ところで、弟子たちがちりぢりになったので、外道のやからは、聖マクシミヌス、マグダラのマリア、弟のラザロ、姉のマルタとその忠実な仕え女マルテイラ、生まれながら見えなかった眼を主に治してもらった聖ケドニウス、そのほか多くのキリスト信徒たちをいっしょに船に乗せ、海上につれだして、舵をとりあげ、ひとりのこらず海の藻くずにしようとした。しかし、神の思召しのおかげで、船は、マッシリア(マルセイユ)に漂着した。

ペテロがマグダラのマリアをマクシミヌスの手にゆだねた、とはどういうことだろう?  どうも、ペテロとパウロのすることには疑わしい言動が多い。訳注には、マクシミヌスと聖ケドニウスの名前は聖書にはないとあった。

また、『黄金伝説』で、長々と描かれるマリアとマルセイユの領主夫妻との間に起きる珍妙な出来事は、一体何だろう?

マグダラのマリアは領主夫妻に子宝をさずけたばかりか、岩の島で死ぬ運命だった子供――男の子だ――はマグダラのマリアに救われ、育てられる。二年間もである。一方では、マリアはマルセイユで説教するなど、宣教にも忙しかったようだが……。

マリアたちが漂着してすぐに子宝の話が始まるおかしさに加えて、一層おかしなことには、不自然なペテロの介入があるのだ。受け身の描かれかたではあるのだが、怪しい。

順序立てて紹介すると、偽神に子宝をさずかる願をかけようとしたマルセイユの領主は、マリアにとめられ、キリスト教の信仰を説かれた。領主は、マリアの信仰が真実であるか確かめたいといい出し、マリアはそれに対して、聖ペテロに会うようにと促す。領主は、マリアに男の子をさずけてくれたならそうするという。夫人はみごもる。

ペテロに会いに行くという領主に、身重の夫人は無理について行く。マリアはお守りの十字架をふたりの肩に縫いつける。一昼夜航海したとき、嵐に遭い、夫人は船の中で男児を産み落とした後で死ぬ。困った領主は、母の乳房を求めて泣く赤ん坊と亡骸を岩礁に置き去りにする。

ローマのペテロに会いにいった領主は、2年間をペテロと共に過ごす。帰途、赤ん坊と亡骸を置いた岩の島に寄ると、赤ん坊は愛くるしく育っていて、領主が妻のことをマグダラのマリアに祈るうちに、妻はまるで『眠れる森の美女』のように目を開ける。

この子宝物語は、マグダラのマリアの章のうちの1/3を占める。マリアたちが宣教するにあたって、領主の許可は必要だろうが、これはどう考えても不自然な話ではあるまいか。わたしは思わず、神功皇后の話を連想してしまったくらいだった。

こんな伝承も、イエスとマグダラのマリアの間に子供があったのではないかという憶測を呼ぶのだろう。万一そうであったとしたら、マリアたちが何者かによって海に流されたのは、イエスの死後、間もない時期であったということになる。

そして、マリアたちの乗った船は嵐に遭い、イエスの子供をみごもっていたマリアは船のなかで出産した。こう想像していくと、嫌でも、『レンヌ=ル=シャトーの謎』の著者たちがとり組んでいたイエスの血脈というテーマが思い出される。

イエスの一番弟子を自任していたペテロ。一方、グノーシス文書が伝えるマグダラのマリアは、イエスの一番弟子として愛されていた。
著者たちが推理したように、もしイエスが宗教の改革者としての側面だけでなく、王位継承権を持つ人物であったとしたら、どうだろう? マリアがイエスの子供をみごもっていたとしたら?

マリアが30年間も洞窟に隠棲したというのも、いささか不自然な話ではある。修行しながら宣教する道もあったはずだ。しかし、隠棲せざるをえなかったのだとしたら? 

つまり、流刑のような目に遭い、幽閉されていたのだとしたら? マリアが彼女の側にいたと想われる人々と海に流されたのは、まさにイエスの子供をみごもっていたからだとしたら? また、マリアが娼婦とされたのは、彼女のおなかの子をイエスの子と認めたくない者たちの喧伝によるものだとしたら?

『マリアによる福音書』におけるペテロとマリアの対立から見ても、イエスの死後、マリアは敵に等しい弟子仲間と行動を共にしていた。
仮に、マリアがイエスの子供をみごもり、そう主張したとしても、それを証明することはできなかっただろう。

マリアが冒涜者であり、風紀を乱すとんでもない女とされて、海に流されるということがあったとしても、おかしくはない。
いずれにしても、『黄金伝説』に描かれたマグダラのマリア伝説には、何かが隠されている気がする。わたしは童話を書くに当たって、洞窟に幽閉された乙女の姿が浮かんで仕方がなかった。そこから、こんな読書の森に迷い込むことになろうとは、想像もしなかった。

誰の子であれ、わたしには岩の島で育てられた男の子が忘れられなくなってしまった。ウォラギネの描写力のせいかもしれないが……。

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