創作ノート - 不思議な接着剤

執筆中の児童小説「不思議な接着剤」のためのノートです。 リンク、転載を禁じます。

タグ:マグダラのマリア

最近シリア情勢が気にかかり、ネットニュースにへばりついている。パソコンで作業をすることが多いので(勿論家事もやっている。入浴も欠かさず。入浴ができるかどうかはわたしの健康のバロメーター)、ちょこちょこアクセスしてしまうのだ。

午後4時ごろもそうだった。ふとTopilo提携メディアサービスには「マリ・クレール スタイル」も入っていたと思い、アクセスしてみた(追記:該当のSeesaaブログは2014年7月3日に削除)。8月の記事を閲覧し終え、移動しようとしてもう少し前のほうに何か綺麗な気持ちにさせてくれるような記事がないだろうかと思った。

シリア情勢の記事にはきついものが多いから。で、過去記事を見ていったら、「貴婦人と一角獣」の記事があったのだ。4月の記事だった。

  • 中世美術の最高傑作「貴婦人と一角獣」

「貴婦人と一角獣」は中世後期に製作された連作タペストリーである。わたしは「マリ・クレール スタイル」のニュースにリンクした上の記事で、以下のように書いた。

キリスト教の異端カタリ派を出発点として、マグダラのマリア、グノーシスに興味を持つようになったわたしにとって、中世はやはり異端カタリ派の中世だ。

『ダ・ヴィンチ・コード』の参考文献の一冊として知られるマーガレット・スターバード『マグダラのマリアと聖杯』(和泉裕子訳、英知出版)にまる一章を割いて「貴婦人と一角獣」が採り上げられており、タペストリーの構図に秘められた謎が追究されている。マーガレット・スターバードは、マグダラのマリア研究の第一人者。

『マグダラのマリアと聖杯』でまる一章を割かれたのは、第七章で、以下のように始まっている。

西洋文明に見られる「聖婚」と「失われた花嫁」という二つのテーマに導かれて、本書は異端聖杯信仰の教義によって解明される可能性がある中世美術の謎を探求してきた。ここでぜひとも探求していきたい芸術作品のリストに加えなければならないものに、中世後期の遺物ともいうべき「一角獣」のタペストリーがある。なかでも『貴婦人と一角獣』と呼ばれる連帳のタペストリーは、カタリ教団の何らかの教義を示しているのではないかと言われてきた。この繊細で神秘的な名作の製作者は、アルビジョア派の異端的聖杯信仰に触発され――「花嫁」に敬意を表して――この構図をとったに違いない、そう私は確信している。 

このタペストリーのニュースを知ったのは、拙kindle本の無料キャンペーンが始まる1時間ほど前で、始そのとき、わたしはマグダラのマリアのことを考えていた。

キャンペーン中の『昼下がりのカタルシス』がマグダラのマリアをモチーフとしたものだからだ。マグ中断中の児童文学小説『不思議な接着剤』もマグダラのマリアをモチーフとしているが、その『接着剤』のためのリサーチで産み落とした作品が『昼下がりのカタルシス』だった。

昼下がりのカタルシス
https://amzn.to/37iWHMr
2020年9月20日の追記:

中世美術の最高傑作「貴婦人と一角獣」、日本で公開へ
2013年4月19日 13:17 発信地:パリ/フランス [ ヨーロッパ フランス ]
https://www.afpbb.com/articles/-/2939471

「貴婦人と一角獣」は15世紀ごろに制作された全6面の連作タペストリーで、仏パリ(Paris)のクリュニー中世美術館(Cluny Museum)が1882年から所蔵している。仏国外への貸し出しは極めてまれで、1973年から1年間、米ニューヨーク(New York)のメトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art)に貸し出されたことがあるのみ。
…(略)…
 6面のタペストリーには貴婦人と一角獣を中心に、様々な動物が描かれている。うち5面は視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の「5感」を表すとされているが、残る1面が何を意味するのかは、いまだ謎のままとなっている。

以下は、パブリックドメインの画像から。

The_lady_and_the_unicorn_Taste
「味覚」(Le goût)
La Dame à la licorne est une série de six tapisseries datant du XVe siècle, que l'on peut voir au musée national du Moyen Âge et illustrent des sens.
1484年から1500年の間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

The_Lady_and_the_unicorn_Desire
「我が唯一つの望みに」(À mon seul désir)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『鹿島市史真実の記録』(田中保善、平成2年)によると、祐徳稲荷神社の創建者、萬子媛は出家して19年、数え年80歳で余命幾ばくもないと悟られたとか。

寿蔵に入って座禅をし、外から岩の蓋をかぶせて貰い、禅定に入って大往生を遂げられたと伝えられる、あっぱれな大名の奥方だった。

念仏の声は岩の蓋の外まで、1週間以上も聴こえていたという。

萬子媛は黄檗宗(おうばくしゅう)の信者だった。ググったところ、黄檗宗とは、中国明末清初の禅宗の僧、隠元隆琦(1592-1673)によって日本に伝えられた、念仏禅を特徴とする明朝禅だそうだ。

わたしは若気の至りで自己流の断食を試み(とても危険なことであるから、絶対にしないほうがよい)、4日でギブアップした経験があるから、体の弱った状態で岩壁に籠もり、念仏を唱えながら死ぬまで断食を続けるという行為がどれほど壮絶なことであるのかが想像できる。

人間の体は食物がなくてもしばらくは何とかやっていけるに違いないが、水がないとだめで、わたしは断食を始めてしばらく経った頃、水分の不足から吐き気が止まらなくなった。吐く物はもう何もなくなっていのだが、腹部が怖ろしいほどに痙攣して、とにかく吐き気が止まらない。

このままでは死ぬと思ったので、吐き気を止めるために水を飲み、もう少し断食を続けた。

萬子媛には、そのような生理現象は起きなかったのだろうか。岩の外にまで声が聴こえたというから、ギブアップする気になれば、直ちに蓋は除けられたに違いない。

萬子媛がいくら筋金入りの尼さんだったとはいえ、外で成り行きを見守る人々は、どんなにハラハラしたことだろう。

亡くなったのは宝永2年(1705年)、4月10日だったという。

今年は2013年だから、萬子媛の大往生時から308年経っている。あの世で楽しく遊び暮らす(?)こともおできになっただろうに、創建者の努めとして、俗人の群れを300年以上も見守り続けるということをなさっているというわけだ。

究極のボランティア、としかいいようがない。

わたしは萬子媛があの世で具体的にどんな暮らしを送り、どのような見守りかたをなさっているのか――つまり、そのボランティア体制とか、期間の問題とかだが――神秘主義者として興味がわくところだ。

わたしは同じようにサント=ボームの岩山の洞窟内に30年籠もって悔い改めの修行生活を送り、そこで亡くなったと伝えられるマグダラのマリアを連想せざるをえない。

プロヴァンスに伝えられるこの話が本当だとしたら、マグダラのマリアもまた、そこを拠点として究極のボランティアを続けていらっしゃるのだろうか。

いずれにせよ、この両者、どこが違うというのだろう?

修行法、亡くなりかたはよく似ているし、その方々を慕ってご利益に与ろうとする俗人の群れ(わたしもその一人だが)にしても、たぶん性質は同じだ。

ましてや、過去記事で書いたように、おそらくイエスの愛弟子だったに違いないマグダラのマリアは、イエスがそうであったようにエッセネ派の影響を受けたことはほぼ間違いないと思われる。

このエッセネ派とはブラヴァツキーのリサーチによると、ピュタゴラス派で、死海の畔に居を構えていた仏教徒(プルニウス『博物誌』)の影響を受けたという。そして、その影響によって思想体系が完成されたというよりも、むしろ崩れていった。

№80 ピュタゴラスとエッセネ派の関係。貞節の勧告。 

https://etude-madeleine.blog.jp/archives/9067602.html

萬子媛は仏教徒であったが(稲荷大神を奉祀されていたのは、当時は自然なことであった神仏混淆のためである)、19世紀末にエジプトで発見されたパピルス写本『マリア福音書』など見ても仏教的ムードがあることからして、マグダラのマリアにも、エッセネ派などを通して仏教的な何らかの影響が及んでいたということも考えられる。

仏教の本質は神秘主義で、徹底した自力本願であるが、未熟であることを自覚する人間が徳のある方々を慕い、その徳に薫染したいと願うのは自然なことだと思う。徳のある方々は、この世にばかりいらっしゃるのではなくて、むしろあの世のほうにいらっしゃることをわたしは知っている(その逆のおぞましい存在もまた……)。

わたしは萬子媛の史跡(祐徳稲荷神社にある石壁神社)を訪ね、そこで萬子媛の高雅な存在感に触れ魅了された。マグダラのマリアの聖地も訪ねてみたいと思っているのだが、この懐の寒さでは今生では無理かもしれない。

マグダラのマリア伝説に触発されて執筆を始めた『不思議な接着剤』はマリアの聖地やカタリ派の里を訪ねずして書くのは難しく、中断中。


2020年9月18日の追記:
拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」の以下の記事で詳述しているが、萬子媛が病死されたことはほぼ確実と思う。部分的に引用しておく。

89 祐徳稲荷神社参詣記 (9)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/11/22/004109

萬子媛が今なお生き生きとしてオーラの威光に満ち、神社という形式を最大限に活用して毎日あの世からこの世に通い、千手観音のようにボランティア集団の長として活動なさっていることがわたしにわかるくらいだから、神秘主義的感性に恵まれた人であればどなたにもわかることではないだろうか。

しかしながら、肉身としての萬子媛は宝永二年閏四月十二日(1705年6月1日)に逝去された。祐徳稲荷神社のオフィシャルサイトには、次のように書かれている。「齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました」(祐徳稲荷神社「石壁社・水鏡」 < https://www.yutokusan.jp/sanpai/sekiheki.php >(2018年11月20日アクセス))

祐徳博物館の女性職員は、石壁社の解説にある寿蔵で萬子媛が断食の行を積まれたことは間違いないです――とご教示くださった。

そして、「萬子媛の死の経緯については、鹿島藩日記に書かれていると思います。ちょっとお待ちください」とおっしゃって、全五巻中、何巻にその記述があるか確認してくださった。

三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)に該当する記述があるということだったので、その巻を注文した。

萬子媛は、身体が弱ってからも、断食の行を続けられたのかどうか。断食の行が御老体に堪えたのかどうかもわからない。

いずれにしても、萬子媛(※鹿島藩日記 第二巻』では、萬子媛のことは一貫して「祐徳院様」と記されている)は宝永二年三月六日ごろにはお加減が悪かった。それからほぼ毎日、閏四月十日に「今夜五ツ時、祐徳院様御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」(三好編纂,1979,p.398)と記されるまで、萬子媛の容体に関する記述が繰り返されている(『鹿島藩日記 第二巻』366~398頁)。

この「今夜五ツ時、祐徳院様御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」という藩日記からの抜粋は、郷土史家の迎昭典氏からいただいた資料の中にあった。

『鹿島藩日記 第二巻』にははっきりと「御病気」という言葉が出てくるから、萬子媛が何らかの病気に罹られたことは間違いない。

そして、おそらくは「断橋和尚年譜」(井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)の中の断橋和尚の追悼詩に「末梢(最期)疑うらくはこれ熟眠し去るかと」(井上ほか編,2016,p.92)と描かれたように、一進一退を繰り返しながら、最期は昏睡状態に陥り、そのまま逝かれたのだろう。

鹿島市民図書館の学芸員は取材の中で「石壁亭そのものは祐徳院様が来る前から断橋和尚が既に作っていて、観音様を線刻したような何か黄檗宗の信仰の対象となっているようなところ――洞穴を、自らのお墓に定められたということだと思います」(※エッセー 88 「祐徳稲荷神社参詣記 (8)核心的な取材 其の壱(註あり)」参照)とおっしゃったが、現在の萬子媛の活動を考えると、観音様のようになることを一途に祈念しつつの断食行であり、死であったに違いない。

2011年6月13日 

執筆中の児童文学作品『不思議な接着剤』で、恐竜は最終章で輝かしいオーラを放つ竜となり、『マリア福音書』を具象化した女性マドレーヌをのせてエジプトの方角へ飛び立つことになる。

竜が目指す地を特定するには、『マリア福音書』がどこで発見されたかを知らねばならない。

カレン・L・キング『マグダラのマリアによる福音書 イエスと最高の女性使徒』(山形孝夫・新免貢訳、河出書房新社、2006年)によると、成立年代が古代にさかのぼる『マリア福音書』の写本には3冊ある。3世紀初頭のギリシア語写本『オクシリンコス・パピルス3525(オクシ・パピ)』『ライランズ・パピルス463(ライ・パピ)』が二つと、5世紀のコプト語写本『ベルリン写本8502』が一つだ。

キングによると、「『マリア福音書』の原本はもともとギリシア語で書かれていたが、現在入手できるその大半はコプト語訳に限られる。コプト語とはエジプト語の最後の段階で使用された言語で、現在もなおコプト教徒と呼ばれるエジプトのキリスト教徒によって典礼用語として使用されている。」「コプト語文字の使用はほとんどキリスト教徒たちの独占であったから、『マリア福音書』をコプト語に翻訳し、こ後世に残したのはエドプト人キリスト教徒であったことは間違いない。」

ベルリン写本
ラインハルトが1896年にカイロの骨董品市場で購入。売買人は中エジプトのアクミーム出身で、ある農夫が農家の壁がん部分にそれを発見したそうだ。しかし、写本の数頁の欠落を除けば、すばらしい保存状態であることからみて、それはありえず、不法に入手されたことは間違いないという。幾世紀もの間、放置されていた場所がどこかはわかっていない。

ライランズ・パピルス463(ライ・パピ)
イギリスのマンチェスターのライランズ図書館が1915年に入手し、1938年、C・H・ロバーツによって発表。『オクシリンコス・パピルス3525(オクシ・パピ)』同様、北エジプトのオクシリンコスで発見された。

オクシリンコス・パピルス3525(オクシ・パピ)
下エジプト(北エジプト)のナイル川沿いにある町オクシリンコスの発掘調査において発見、1983年、P・J・パースンズによって発表された。現在、オックスフォード大学付属アシュモール博物館所蔵。

前掲書にキングは書いている。「古代では、禁書扱いしたい本を消却する必要はなかった(もっとも、こういうことは時たま行われたが)。再筆写されなければ、無視されてそのまま姿を消したのである。われわれの知るかぎり、『マリア福音書』は5世紀以降は再び筆写されることはなかった。」

児童文学作品『不思議な接着剤』と微妙な関連性をもたせるために、『すみれ色の帽子』に瞳が秋芳洞を訪ねるお話を考えていた。

時期としては、紘平が夜見た夢という結末になる以後のことで、この時点で瞳に異世界での冒険の記憶は失われている。

しかし、名残はあるのだ。彼女は洞窟内の部屋のようになった空間で我知らず、マリーの面影を探し求める。「わたしはこの黄金柱と呼ばれる壮麗な柱のある部屋に、美しい貴婦人を置いてみたい気がしました」と瞳は綴る。

マリーというのは、わたしの『不思議な接着剤』に登場する囚われの女性で、『マリアによる福音書』『ピスティス・ソフィア』などのエッセンスを造形化した女性(という試み)。それら哲学的なグノーシス文献に頻繁に登場するのはマグダラのマリアだから、マリーという名にしたのだった。

また瞳は、灯りを浴びて、緑色に輝く竜のように見える巨大な岩を見ると、竜の背中をなでるところを想像してしまうが、『不思議な接着剤』の中で、実際に彼女は緑色のオーラを発する本物の竜をなでたのだった。竜の苔の色を反映していたかのような緑色のオーラは、終局部では美麗な真珠色となり、太古の動物はついに神獣として目覚めるのだ。

マグダラのマリアのことを考え、グノーシス派についてもっと知りたいと思い、また竜が古代何をシンボライズしたものだったかを考え出すと、やはり頼りになるのはブラヴァツキーの文献しかない。

そして、調べただけのことはあった。

蛇と竜に関する象徴的な意味は夥しく存在するが、『不思議な接着剤』の竜に適切な意味を見い出して紙のノートに写した。

その意味との関連から『不思議な接着剤』の中で、竜がなついていた老人がどんな存在であったかも、はっきりさせることができた。


ところで、『ダ・ヴィンチ・コード』の商業的ヒットによる影響は大きいが、グノーシス文書におけるマグダラのマリアがフェミニズム的関心を集めたことなどもあって、一般的なブームともなり、グノーシス文書はようやく日の目を見たような感じを受ける。


それまでは、翻訳書に頼るしかないわたしは一般のものとしては、ユング系の精神分析学との関連で触れられたものしか知らなかった。

グノーシス主義に対するアカデミックな関心は、エレーヌ・ペイゲルスの研究発表が行われた1972年から高まったようだから、アカデミックな世界においてさえ、グノーシス文書にまともな地位が与えられたのは比較的最近のことといってよい出来事だ。


しかし、神秘主義の世界ではグノーシス派の文書は、ずっと昔から正当な地位を与えられてきた。ブラヴァツキー夫人は、「アレクサンドリアのグノーシス派の記録」について、それが秘伝の秘密を十分に明かしたものだと述べる。

ブラヴァツキー夫人は「キリスト教の最初の二、三世紀に書かれた『ピスティス・ソフィア』」からの引用を散りばめているが、彼女が引用できるグノーシス派の文献は乏しかっただろう。その頃はまだナグ・ハマディ文書は素焼きの壷の中で熟睡していたし、『マリアによる福音書』(ベルリン写本)も1896年に認定は受けたものの公刊は遅れ、1955年になってやっとというくらいだから。

だが、ブラヴァツキー夫人の言葉やグノーシス文書におけるマグダラのマリアの扱われかたから見て、マリアはやはりイエスから、公にされたものとは異なる秘密の教えを受けたのではないかと想像できる。その秘められた内容がグノーシス文書として残されたとしても不自然なことではない。


ブラヴァツキー夫人は1831年に生まれ、1891年に没しているが、それまで秘教とされてきた東西における諸哲学の集大成であり、精緻な研究書でもある『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(田中恵美子 ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成元年)の中で、次のようにいっている。

コンスタンティヌス時代は歴史の転換期であった。つまり、西洋が古い宗教を絞め殺し、その死体の上に築かれた新しい宗教を支持することに終わった最大の斗争の時代であった。その時から、後世の者達が大洪水やエデンの園よりもっとさかのぼって、太古を覗くことは、公正、不公正なあらゆる手段をつくして、強制的に容赦なく禁じられはじめたのである。あらゆる発行物は妨げられ、手に入れることができる記録はすべて破り棄てられた。だがこのようなずたずたにされた記録の中にさえ、源となる教えが実際にあるということを示すに足る証拠が残っている。いくつかの断片が、その物語を語るための地質的、政治的な大変動に耐えて生き残って来たのである。そして生き残った断片はみな、今の秘密の智慧が、かつては唯一の源泉、絶えることなく流れ出る永遠の源泉であり、そこから流れ出る小川、つまりあらゆる国民の後世の宗教の最初のものから最終のものまですべてに水を与えるもとの泉であることを示している。仏陀とピタゴラスにはじまり、新プラトン派とグノーシス派に終わるこの時代は、頑迷と狂信の黒雲によって曇らされることなく、過ぎ去った幾時代もの昔から流れ出た輝かしい光線が最後に集まって現れた、歴史の中に残された唯一の焦点である。

3日7日。

イエスの時代に存在したとされるナザレ派やエッセネ派にかんするブラヴァツキーの論文を読んだ。

ユダヤ教の聖典は、イスラエル人の間で行われた別個の崇拝、宗教を示しているという指摘は興味深い。当たり前なことであるといえるのに、なぜかわたしは単一のものと考える癖がついてしまっている。

また、ナザレ派、エッセネ派、エビオン派など、後に異端とされたこれらをグノーシスと切り離して考える癖がついてしまっている。これらとは別の派に属する治療家たちもいた。こうした宗派の教えは多かれ少なかれカバラ(ユダヤ教の秘教)に基づいていた……

それがどんなものであったかを、語源を探り、資料を駆使して次々とヴェールを剥がしていく。出典が一つ一つ記され、なぜそう考えられるかという根拠についても一つ一つ書かれている。だから疑問が生じる場合は、確認作業を行うことが可能なはずだ。

『ダ・ヴィンチ・コード』の作者が参考にした『レンヌ=ル=シャトーの謎』はよく調査されていると思われ、興奮したが、ブラヴァツキーの調査は(昔の人なのに)もっと徹底していて、灯台もと暗しだったと呆れる。

いや、イエスの時代のことが相当に書かれていることはわかっていたのだが、前に読んだとき、わたしには基礎知識すらなく、何が何だかわからなかったのだ。

『レンヌ…』を読んだあとでは、ずいぶんわかりやすくなった。『レンヌ…』がブラヴァツキーの『アイシス…』のこの章の入門書の役目を果たしてくれるとは。

『レンヌ…』でエッセネ派がピュタゴラス的な思想を取り入れたことについて触れてあると、ブラヴァツキーの『アイシス…』では、エッセネ派はピュタゴラス派だったと書かれ、さらにいろいろと書かれていて、勿論出典が記されているという具合に。

ナザレ派を作ったと伝えられている改革者イエスが厳密にはエッセネ派だったとはいえないし、どの宗派に属していたかを特定するのは不可能に近いとさしものブラヴァツキー夫人も音を上げているのだが。

涼しくなると、とたんに創作にエンジンがかかる。ようやく、最低限、この児童文学作品に必要なだけの体力が集まったという感じだ。

ちょうど、創作帳とは別に、頭に浮かんだことを何でも書き殴る『ほぼ日ペーパーズ』の新しいものを下ろした日と重なり、新鮮な気分。

だが、今日はストーリーをどんどん先へ進めるというわけにはいかなかった。細かな部分が気になり、その調べものに結構時間が費えてしまった。せっかちな操作で何度かパソコンが固まってしまったくらい、気が急いた。

子供たちが白ネコに誘われて向かう先は、マグダラのマリア、フランス語にするとマリー・マドレーヌがモデルである乙女が囚われた場所。正確にいえば、『マリアによる福音書』をイメージ化した女性ということになる。

『マリアによる福音書』には、東西の思想を一つにする鍵があるとわたしは考えている。

子供たちは鍾乳洞の部屋のようになった場所でおやつにするために、お菓子の箱を持って行くのだが、そのお菓子の詰め合わせの中にマドレーヌを潜ませておこうと思う。マドレーヌの賞味期限は1週間から2ヶ月とばらつきがある。

お菓子と瞳が持って行く綺麗なロウソクは、子供たちが文明圏から来たことの証明となるものだから、味が落ちたり、腐ったりしていてほしくない(わたしの好きなアンリ・シャンパンティエのは14日)。子供たちが中世風の世界に何日いることになるのか、まだはっきりさせていないが、当初予定していたよりも長い滞在となりそう。

翔太が携帯するライトのことでも迷った。ストラップ型のライトを瞳のリボンで首にぶらげるくらいなら、ネックライトにしたらいいではないかと思ったのだったが、人気のパナソニックのLED防滴ネックライトは2,270円(税込)で、翔太が小遣いで買うには高すぎる気がした。わたし、このネックライトほしい。優れものだそうだ。

ネックライトはメーカーにこだわらなければ、安いものもあるそうです。よくお気遣いくださる訪問者のお一人から教わりました。いつも、ありがとう

一昨日は、これまでの部分の手直し[1]と、子供たちが鍾乳洞へ入る部分のラフ・スケッチ[2]。

また、『黄金伝説』から推理できるマグダラのマリアの二つの運命、そしてモーセについて気になることがあり(特にフロイトのモーセ、エジプト人説)、調べ始めた。
黄金伝説 2 (平凡社ライブラリー)
ヤコブス・デ・ウォラギネ (著)
ISBN-10 : 4582765785
ISBN-13 : 978-4582765786
出版社 : 平凡社 (2006/6/8)

フランスにやって来たキリストの弟子たち―「レゲンダ」をはぐくんだ中世民衆の心性
田辺 保 (著)
ISBN-10 : 4764265672
ISBN-13 : 978-4764265677
出版社 : 教文館 (2002/4/1)

田辺保先生の『フランスにやって来たキリストの弟子たち』(教文館、2002年)から、以下に抜粋。

レンヌ=ル=シャトーをめぐる伝説では、この村は、マグダラのマリアがフランスに上陸後、移り住んだところとされています。実は、マグダラは、イエスの妻であって、二人の間には少なくともひとり以上の子どもがあったとされていわれます。南フランスのユダヤ人共同体にまぎれこんでマリアは子どもを育て上げ、その子孫が五世紀には、北方から進出してきたフランク族の王族のある者と結ばれて、メロヴィング朝(フランス最初の王朝)を創始したのだそうです。

この伝説と、ヤコブス・デ・ウォラギネ『平凡社ライブラリー 578 黄金伝説2』(前田敬作・山口裕訳、平凡社、2006年)におけるマグダラのマリアと領主夫妻の間に起きる長々とした1件を重ね合わせてみると、以下の二つのストーリーが考えられる。

  1. イエスの死後、ちりぢりになった弟子たちのうち、マグダラのマリア派ともいうべき一行は、何らかの陰謀により舵のない船に乗せられた。その件に、ペテロが関係している可能性あり。マリアはイエスの息子である男児を連れ、身重だった。船は嵐に遭う。マリアは航海中に出産する。母子共に死亡か? マリアの遺体は一旦岩の島に安置されたあと、サント=ボームの洞窟へ移された。遺された男児はマルセイユの領主夫妻に引きとられた。
  2. マリアは、イエスの2人の子供たち――男の子と赤ん坊――を連れていた。マリアたち一行はマルセイユに漂着する。領主夫人が出産中に死亡した。胎児と共に。マリアは領主夫人の代わりとなって、その地に溶け込み、子供たちを育て上げた。

整合性があるのは1だ。2だと、マリアのサント=ボームの洞窟における30年間もの隠遁の説明がつかない。マリアがイエスから受け継いだ高度な教え(カバラの起源となったエッセネ派の教え)は、マリアに同行したイエスの弟子たちが広めたと考えればよい。それが中世に表面に出てきてカタリ派といわれた。これはあくまで仮説、というより単なる想像の段階だが。

一昨日、図書館から再々度借りてきたフラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌 1』(秦剛平、ちくま学芸文庫)をざっと復習した。

モーセが描かれているからだが、旧約聖書とはムードが違う。ヨセフスは、聖書外の資料を含む豊富な資料のみならず想像力をも駆使して、膨大な歴史的断片を自在に編集しているのだ。

訳者によると、「当時のユダヤ人たちは『聖書』を決して固定化された堅苦しい文章とは見なしていなかったこと、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は別にして、彼らは聖書の物語を自由に読み、さまざまな仕方で解釈したり、想像力を駆使して細部を埋めたりしてそれを再話したこと、そしてその論より証拠がヨセフス」だという。

その後も、このような風通しのよさがあったからこそ、異端とされる『マリアによる福音書』のような沢山のグノーシス文書も生まれたというわけだ。アレクサンドリア学派のことを考えてみても、学問が盛んであれば、様々な説が生まれるのは当然だろう。

ヨセフスは、モーセの若い頃のあやまち(エジプト人がユダヤ人を苦役させ、打っているのを見た若きモーセは、エジプト人を打ち殺して砂に隠した)を書いていない。金の子牛の話も出していない。

ヨセフスの資料の取捨選択には、当時の異教徒たちのモーセ像が、ユダヤ人たちの「聖なる文書」にもとづかない間接的な歪曲されたものであったため、そうした事情が考慮されてのことらしい。

3歳のモーセがどんなに美しかったか、また魅力的だったかについて、ヨセフスは見てきたように描いている。

旧約聖書で読むモーセには興味がわかなかったが(遠い時代、遠い国の荒々しい爺さんという印象)、ヨセフスの描くモーセは生き生きとしていて、峻厳美に満ちている。

モーセが指揮して造営された幕屋の意味ある造形と壮麗さ! 旧約聖書における単調な材料の羅列からは見えてこないものが見えてくる。

最初の曙光が差し込むように東に向けて立てられた幕屋の聖所内は、宇宙の姿を模してあるそうだ。

聖所全体は聖なる場所と呼ばれ、四本の柱の奥の祭司が入場できない場所は至聖所と呼ばれた。そこに吊された垂れ幕こそはこの上なく美しいもので、地上に咲き誇るあらゆる種類の花で覆われ、また、装飾に役立てば、生き物の形以外のいっさいの意匠が織り込まれていた。

燭台について。

燭台は、蕾、百合、ざくろ、ともしび皿等、台座から上端にかけて70の部分からつくられていた。それは燭台が太陽と惑星の活動領域の数を構成するようにつくられていたからである。燭台の支柱には等間隔の7本の枝に、惑星の数を想起させる七つの燭がついており、燭台が斜めにおかれていたので、七つの燭は南東を向いていた。

さらに。

またモーセがテーブルに12個のパンを置いたのは、1年が12か月に分かれていることを示すためである。また、彼が燭台を70の部分と七つの燭でつくりあげたのは、惑星の10度の領域と七つの惑星の軌道から暗示されたことを示している。
 そして4色の糸で織られたものは、自然界の4元素がどのようなものであるかを示す。すなわち、亜麻布の色は大地を――亜麻は大地に自生する――、紫は海を――海は魚の潜血に染まる――、青は大気を、深紅は火を表わしている。 

この辺りの描写からはエジプト様式が薫るような気がする[3]。秘教の存在を感じさせるものであり、どう考えてもこれはまぎれもないカバラの序曲ではないか。

神の箱についての描写には息を呑む……。勿論、中に入っているのは最高のお宝、神ご自身の手になる十戒の言葉が五つずつ刻みつけられた2枚の石版だ。

そしてクライマックス。神が客人として幕屋に滞在されたのだ。神の顕現は雲で表現されている。

すなわち神は彼らのもとへ来て聖所に客人として招待されたが、そのときの神の臨在の模様は次のようなものであった。空が晴れているのに幕屋の聖所だけが闇になり、やがて一団の雲がそれを覆った。だがその雲は、冬の嵐に見られるような濃くて深いものでも、見透せるような薄いものでもなかった。しかし、そこから滴る繊美な露のしずくこそ、神の臨在を願い神の存在を信ずる人びとには、明らかな一つの証しであった。

それにしてもこの神迎えの形式は、神道の儀式――大嘗祭――を連想させられる[4]。

ヨセフスのものは、創世記からして旧約とは違う。彼は随所に「モーセの語るところによれば」「モーセは語りはじめる」「モーセはさらにこう語っている」という語り手が誰であるかに注意を向けさせる言葉を挿入するのだ。旧約だけを読むと、それはまるで天から降ってきたといわんばかりの威圧感、古めかしさなのだが。

エバについて、以下のようなことは聖書には書かれていない。

ヘブル語で女は「エッサ」と呼ばれる。そして、この最初の女は、「すべての生き物の母」を意味するエバという名が与えられた。

ヨセフスがイエスと同時代の人であることを考えれば、彼の執筆姿勢はあまりにも現代的に思えるが、訳者解説によると、登場人物にスピーチさせて「そのときその場の雰囲気をリアルな仕方で盛り上げる手法は、ヘレニズム・ローマ時代の歴史記述がトゥキューディデースから継承したもの」だそうだ。

ところで、ヨセフスが浄・不浄の規定に言及した理由について、訳者解説に「当時の世界の人びとが、モーセとその同胞は、エジプト人であったとか、しかも彼らはエジプトの地でレプラに罹り、そのためエジプトを追われたのだと信じていたからである」とあり、ここはフロイトのモーセはエジプト人であったという主張との関連から、ちょっと考えさせられた。

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)
ジークムント フロイト (著), Sigmund Freud (原著), 渡辺 哲夫 (翻訳)
ISBN-10 : 4480087931
ISBN-13 : 978-4480087935
出版社 : 筑摩書房 (2003/9/1)

うーん。『不思議な接着剤』を進める一方で、モーセの謎に迫り、古代エジプトの歴史を垣間見なくてはならなくなった。『ゾロアスター教』もまだ完読できていない。

ヨセフスの『ユダヤ古代誌』は購入することにした。あまりにたびたび図書館から借りるのも悪いので。

 全巻となると、文庫版といっても少々値が張るが、『ユダヤ古代誌』はヨーロッパのキリスト教徒や知識人たちに聖書の次によく読まれ、「小聖書」「書き改められた聖書」と評されるほどの本らしいので、持っておいても損はないだろう。 

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

[1]ボンドが登録商標であることを知ったので、作中のボンドを接着剤に改めた。アルケミーボンド株式会社というメーカー名については、これで問題ないと思う。
   追記:アルケミー化学工業株式会社に変更(2014/07/08)

[2]白ネコの再出現地点で迷う。白ネコは過去と現在、そしておそらくは未来をも行き来する存在で、子供たちのガイド役となる役割を果たす。電器店の倉庫内で、ちらりと姿を見せ(暗闇で目が光る。子供たちにはネコを探し出せない。「ネコだ。目が光っている。動いた。あっちだ。いない。いつ、入りこんだのだろう?」)、その後鍾乳洞内で道案内をするかのようにまたネコが姿を見せる。

[3]H・P・ブラヴァツキーは『神智学の鍵』(神智学教会ニッポン・ロッジ、昭和62年初版 - 平成7年改版)用語解説で、「エジプト人とカルデア人は最古の占星術の信奉者に数えられる」という。カルデア≒バビロニア。

[4]吉野裕子『天皇の祭り』(講談社学術文庫、2000年)

 いろいろと夢を見た中に、魔女の夢があった。先日から魔女のことばかり、書いていたからだろう。

 魔女といっても、白い魔女という感じで、2人の宮廷婦人のようなドレス姿のブロンドと栗色の女性たちが、別の2人の女性たちの戴冠式と成人式を兼ねたような儀式のために、衣装選びをしている。高貴な雰囲気。

 儀式は、宮殿のテラスから見える山の頂きまで飛んでいって、そこで行われるという。

 ここはヨーロッパのどこだろう、と思い、「ここは何という国ですか?」と訊くと、彼女たちは 「あら、日本に決まっているじゃない。ほほほ……」と笑う。

 わたしは赤くなり、そういわれると、アルプスかと思ったけれど、久住にも見えるわね……と考える。

 ブロンドの女性が着ていたドレスはすんなりしたタイトに近い、膨らみの少ないもので、サファイア・ブルーに黄色い大きな星を散りばめた、大胆で素敵なデザインだった。

 そういえば、上山安敏『魔女とキリスト教』(講談社学術文庫、1998年)によると、異端審問で異端者とされた重罪人は、黄色い十字架の印を身に着けさせられたという。「黄色は当時から軽蔑の意味を持ち、ユダヤ人と売春婦に着用されたのである。」

 わたしは今でこそ黄色が好きになったが、以前は黄色が怖ろしかった。黄色を見るだけで、叫びたいような恐怖心に駆られたのだった。

 反対に、ブルーは何ともいえない安らぎを与えた。大学時代のわたしは、仲間うちで、ブルーの服しか着ないことで知られていた。寮には、ブルー=わたし、と刷り込まれた人までいたほどだった。

 アーサー・ガーダムは、カタリ派僧侶は深青色のローブをまとったと書いている。

 もしかしたら、いくつもあるに違いないわたしの前世のうちには、カタリ派として迫害された人生も混じっているのだろうか? でも別に、キリスト教会を怖いと思ったことはない。むしろ、大学時代にはひじょうに心惹かれた。

 前掲書には、産婆が魔女とされることが多かったとあるが、それには当然、キリスト教会の利害が絡んでいた。

 そのうちの一つは、砂糖の営利権だったという。

 こうしたことも含めて、健康の記事と一緒にしてきた前掲書からのノートを、Notes:不思議な接着剤にまとめておきたいと思う。

 しかし、産婆を迫害した男たちだって、当時はほとんどが産婆の介助で生まれただろうに……と不思議な気さえする。

 仮に魔女がいたとしても、魔女が簡単に捕まったり火刑台に上がったりするはずがない、とは彼らは思わなかったのだろうか? 

 魔女が箒に跨っている姿は、わたしには物哀しく映る。万能に近い力を付与されてさえ、彼女たちは家事から解放されえなかったのだ――と思うと。進化した魔女は、掃除機に跨るのかしら?

 前掲書には、魔女を合理的に活用しようとしたスウェーデン国王の話が出てきて、笑わせる。彼は自国の軍隊に4人の魔女をつけ、デンマークの国境に進軍したという。残念なことに、大公ジギスムントの魔女作戦は効果なかったらしい。

 マグダラのマリアが初代教皇になっていれば、キリスト教の歴史は、世界はどんなに変わっていただろうと思う。
 
マダムN 2010年5月27日 (木) 14:50  

つながった! イエスは、エッセネびと(ヨセフスの記述)と考えられている秘儀的クムラン宗団と関係があったに違いない。なぜなら、エッセネびとは白い服を着ていたことが特徴的で、イエスの墓にいたのは白い服を着た人だったから。

何とカバラ神秘思想の起源は彼らだったかもしれないのだ。そして、そのなかの中心人物こそ、正統なユダヤ王の復権と思想の刷新を目指したイエスだったのだとしたら……!

フィロンの記述によると、彼らはヨガそっくりの瞑想法を実行していたらしい。マグダラのマリアがイエスから教わったのは、それだったに違いない。イエスの観点からすれば、マリアだけが、弟子たちのなかで、それを伝授される段階に達していたのだろう。そのことが、ペテロたちの嫉妬を買ったのだ。

内部抗争によるものか政治亡命なのか、他の理由によるものかはわからないが、何にしても、ぼろ船に乗せられたマリアたちは嵐に遭いながらも南フランスに漂着した。そのときマリアが生きていたのかどうかもわからないが、彼ら一行はマリアがイエスから教わった秘儀的な教えを南フランスに広めようとしたに違いない。後にその地で活発に布教したカタリ派が西欧の仏教と呼ばれたことを考えると、まるで地下水脈が流れているかのように一本の糸でつながるものがあるではないか!

もう少し、丁寧に見ておこう。

イエスはしばしばラビと呼ばれた。

ラビについて調べていたら、昔読んだ箱崎総一著『カバラ ユダヤ神秘思想の系譜』(青土社、1988年)に、わかりやすく書かれていた。若いときに丹念に読んだ形跡があるが、当時は消化できなかった。今これを読むと、ユダヤ文化の精華に関しての理解を深めることができるばかりか、新約聖書の謎に光を当てることが可能となる。

以下は、ラビという称号の由来から、『マリアによる福音書』でマグダラのマリアがイエスから受けたという教えを連想させるフィロンの記述までを含む、そこからのノート。

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カバラ―ユダヤ神秘思想の系譜

箱崎 総一 (著)
ISBN-10 : 4791758390
ISBN-13 : 978-4791758395
出版社 : 青土社 (2000/9/1)

13世紀ごろスペイン在住のユダヤ人たちによって集大成された『光輝の書(ゾハル)』。現存するカバラ思想関係の資料としては最も完璧なものだという。

ユダヤ人には二つの大きなグループがある。

  • アシュケナジム……東欧系ユダヤ人。ドイツ語とヘブライ語の混合したイデッシュ語を用いる。
  • セファルディム……スペイン・ポルトガル系ユダヤ人で、現在北アフリカ、地中海地方、オランダ、英国などに住む。古典的ヘブライ語の他、スペイン語化したヘブライ語ラディノなどを用いる。

タルムード(3世紀~5世紀に成立。旧約聖書モーゼの五書に関する註解書。ミシュナを基本とする)

  • パレスチナ・タルムード
  • バビロニヤ・タルムード(現在使用されている)

ユダヤ学院

  • パレスチナ地方のティベリアス、セホリス、カエサリアの各都市
  • バビロニア地方のネハルディア、スーラ、プンペディタの各都市

「これらの学院における研究目的はミシュナの文章の意味を論考し、簡潔な表現とすること、旧約聖書の原典との照合作業、現実に発生した事件例に関して律法がどのように適用されうるかの判例研究、さらに新しい原則の設立のための研究などが含まれていた。そして、これらの研究を担当した学者たちは、ゲマラあるいはアモラと呼ばれることになったのである。パレスチナ地方におけるアモラにはその称号として“ラビ”が、バビロニア地方では“ラブ”あるいは“マル”という称号が与えられた。」

哲学者フィロン[前20頃-40頃]

「フィロンの著作集は、その大部分が流暢なギリシア語で書かれ、その思想的背景はユダヤ教であった。彼が学んだとされるストア学派からの影響も色濃く認められる。フィロンの思想は現代ユダヤ教においては承認されていない。その理由として考えられることは、ユダヤ教パリサイ派ではギリシャ哲学が排斥されていたからであろう。〔略〕フィロンの著作集は初期キリスト教会において広く読まれ、教父達によって現在まで手厚く保存されることになり、このため後世フイロンをキリスト教者と誤認することが多くなった。
 フィロンの著作集は旧約聖書『モーゼの五書』に関する評釈書という形式を採用して記述され、質疑問答の形をとっている。フイロンの解釈は常に聖書の章句を寓意[アレゴリー]として解釈する傾向を示している。ことにこの傾向は『比喩の原義』において顕著であり、『創世記』における最初の人間アダム(原始の人間[アダム・カドモン])は、フィロンにおいては人間の霊魂が発達する象徴と考えられている。これらの象徴的解釈方法が後世のユダヤ神秘思想体系カバラに濃厚な影響を与えることになる。」

「フィロンがアレクサンドリアで活躍していた頃、パレスチナ地方死海のほとりに禁欲的な瞑想的生活を続けている一群のユダヤ人たちがいた。〔略〕現代の研究者は彼らを“クムラン宗団”または“死海宗団”と命名している。
 『死海の書』に関する研究が進むにつれて新たに脚光を浴びてきた事実があった。死海宗団はユダヤ神秘思想とくにカバラ思想の原型とも見なすことのできる神的霊知に関するかなり発達した秘儀体系をもっていたことが判明した。〔略〕
 こうした秘儀宗団が共通して抱いていたユダヤ神秘思想の背景には、さらに古代ギリシャで発達した神秘思想との関連も認められる。とくにネオ・ピタゴラス学派からの影響が濃厚であるこの学派は、今日では数学者として知られているピタゴラスに端を発する神秘主義教団であった。平面幾何学におけるピタゴラスの定理(三平方の定理)の発見者ピタゴラスは、紀元前6世紀の人物である。
 ピタゴラスによれば数は万物の根本であり、原型である。この基本数の関係にしたがって宇宙は秩序ある体系として創りあげられた。“限りあるもの”は奇数で、“限りなきもの”は偶数であるとされ、このニ種類の数によって宇宙は構成される。数的調和関係は天体運動にも、和音を発生させる琴の弦の長さにも存在すると考えられた。
 ネオ・ピタゴラス学派では、数学は霊魂浄化手段と見なされた。魂を鎮める音楽と、普遍的真理を探求する数学研究を通じて、霊魂の不滅と輪廻思想・死後の応報思想が解明されるものとされ、それが彼らの宗教信条となった。同学派の数的象徴はつぎのようなものである。天体数は神聖数である10、霊魂の数は6、結婚は5、正義は4、などと規定された。この発想形式は前述したフィロンの数的象徴にも認められ、後世のカバラ神秘思想のゲマトリアのなかに更に発達した形で組みこまれていくことになる。
 フィロンの記述による瞑想的生活および死海宗団の禁欲的瞑想生活の実際はどんなものであったろうか。それはユダヤ神秘思想家の間で師伝の形をとって数千年来連綿と継承されてきたものだが、具体的瞑想手段については現在でも極めて厳重な秘密のベールにつつまれている。さらに口伝の形をとっているために文書化された文献も存在しない。わずかな資料を総合してみると、秘儀実行の際には聖歌が合唱され精神の集中度が高められてゆく。意識の焦点を頭と膝の中間部分に集中させながら瞑想をつづけていくことで、めくるめく恍惚感によって全身がとらえられるという。〔略〕」

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カタリ派が壊滅させられた時期に、カバラ思想の代表的な著作が完成した。何ということだろう。谷あり、山ありだ。神秘主義という観点から見れば、中世のヨーロッパは新陳代謝の盛んな時代だったといえる。

もし本当にイエスがエッセネ派(クムラン宗団)と関係があったのだとすれば、キリスト教は形骸だけを守ってきたことになる。肝心の秘儀を運ぶ使者はマグダラのマリアこそであったのに、彼女は極めて不当な扱いを受けてきたのだから。

マグダラのマリアは、真の意味合いにおいて、東西を結ぶ平和の使者と成り得た人物であったに違いない。しかし彼女はおそらく、豚に真珠を投げるというあやまちを犯したのだ。

自作童話『不思議な接着剤』のなかで、洞窟に囚われたマリーの姿が今度こそ見えた。紘平、翔太、瞳……と一緒にわたしもいよいよ洞窟へ入ることになる。

ヨセフス『ユダヤ戦記』に出てくるエッセネびと。

イエスがエッセネびとの一員だったとして、しかもラビと呼ばれていたことを考えると、イエスは、またマグダラのマリアとの関係は、ひじょうに微妙なものとならずにはいられなかったと想像せざるをえない。

新約聖書の不思議さは、エッセネびとに原因の一つがありそうだ。
教師、律法学者、精神的指導者といわれるラビについてはあとで調べてノートしておきたいが、ラビは普通、結婚した人間であったとされる。成熟し、安定した人間像が想像できる。イエスは弟子たちからたびたびラビと呼ばれているので、彼が結婚していたとしても不思議ではない。

ラビになったあとでエッセネびととの関わりをイエスが強めたのだとすると、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』(秦剛平訳、ちくま学芸文庫、2002年)によれば、エッセネびとのあいだには結婚に対する蔑視があったようだから、仮にイエスが結婚していたとしても、結婚していないかのような振る舞いをせざるをえなかっただろう。

ヨセフスの記述には矛盾するところがあり、エッセネびとは誓いを避けるとあったかと思えば、自分たちの秘密は死に至る拷問を受けても漏らさないように誓うともあって、どちらが真なのかはわからないが、エッセネびとには独特のムードがあったようだ。エッセネびとについてのヨセフスの記述を読んだあとでは、イエスに付き纏う謎は、彼らエッセネびとの謎と融け合ってしまう。

ローマ帝国の圧力、ユダヤ文化の伝統と変革の波に揉まれて生きたに違いない人間イエス。

エッセネびとが「太陽が昇るのを祈願するかのように、それに向かって父祖伝来の祈りを捧げる」とあるのを読むと、カタリ派と太陽信仰を関連づける説を連想してしまう。
とにかく、このエッセネびととキリスト教とはいろいろな面で重なりを感じるところがあるので、エッセネびとの章を全文ノートしておきたいくらいだ。

また、ヨセフス『ユダヤ古代誌』(フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌ⅩⅩ』秦剛平訳、山本書店、1981年)から《大祭司制》についても全文ノートしておきたいが、結構長いので、始めのほうだけ以下に。大祭司制の起源はモーゼの時代で、世襲制であったことがわかる。
連綿とつづいてきた大祭司制について

(1)さて、わたしはこの『ユダヤ古代誌』において、大祭司制――それがどのようにして始まったか、だれがこの職務につきうるのか、また〔今次の〕戦争の終結までに何人の大祭司が数えられたか等々――について詳しい説明を行っておくことが必要なことであり、また適切なことであると思う。
 神のための大祭司の仕事を最初に行った人は、モーセースの兄弟アァローンであったと言われ、彼が亡くなった後その職務はただちに彼の息子たちに引きつがれ、以後、その子孫たちがもっぱら〔大祭司〕職を独占するようになったとされている。
 このような理由から、アァローンの血をひく者でなければ、何びとといえども神の大祭司職につくことはできないという伝統が生まれ、他の血統の者はたとえ王であっても、大祭司たることは許されないのである。 

マグダラのマリアは、いろいろな資料から推理するに、最低2人の子供と共に南フランスに渡ったことは確かだと思う。

『黄金伝説』の領主の妻にマリアの運命が重なっているように想われる――だとすると到着時には既に死亡していた――が、幽閉されていた可能性もある。

この辺りのところがはっきりしないと、洞窟のマリア像がもう一つ鮮明とならないのだ。それで、別の角度から光を当ててみようと、他に資料を漁ったりもしているのだが。

タロットで占っても始まるまいが、タロットが神秘主義者たちによって洗練されていったことを想えば、女教皇はマグダラのマリアと見ていいかもしれない。

イエスの磔刑が行われたのは、資産家の弟子の私有地で、あれは一種の儀式だったと見る解釈は捨てがたいが、『マリアによる福音書』を見る限りでは、イエスはやはり十字架上でかどうかはわからないが、あの頃に亡くなったのではあるまいか。

いろいろと調べてみても、もやもやしたものが付き纏う。

私事だが、大学時代、わたしは聖書に読み耽り、数々の疑問を覚えた。イエスの奇跡譚に関しては、神秘主義的な文献――ヨガを含む――を同時に沢山読んでいて、ヨギたちの起こす奇跡譚のほうがむしろ凄いくらいだったから、イエス奇跡譚が御伽噺であったのか、事実であったのかの検証は必要だろうが、確定できることでもないだろうと思い、それに関しては立ち止まることなく、通り過ぎた。〔参考までに⇒№34

神秘主義では、奇跡は(秘教)科学技術の熟達、あるいは乱用にすぎないものとされており、厳密にいえば、神秘主義の辞書に奇跡という言葉はない。全ては科学的現象だとされている。

わたしが新約聖書を読んで理解に苦しんだのは、もっとさりげないが、意識に引っかかる記述が随所にあるという点だった。

そもそもイエスの出自について、四福音書にはばらつきがある。

マタイでは、ダビデ王の子孫という王家の血筋。マルコでは出自についての記述はないが、イエスは大工で、マリアの子、またヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟とある。ルカでは、マリアの夫ヨセフがダビデ家とその血筋に属していたとある(イエスは処女マリアから生まれたことになっている)。ヨハネでは、出自についての記述はない。

他に、引っかかる記述を思いつくままに挙げると……。

熱心党のシモン[マルコ福音書。以下、福音書を略]。熱心党とは?

カナの婚礼で、イエスの母はお節介にもワインの心配をして、その補充のために奇跡を起こせとまでいう[ヨハネ]。誰の婚礼なのか。

繰り返し強調されるメシア、油注がれた者。ラビ。ユダヤ人の王。神の子。

非常に高価な純粋のナルドの香油をイエスの足に塗り、髪で拭くといったマリアという女性の行動は、一体何だろう? なぜイエスは、そのマリア、マルタ、ラザロといった兄弟を愛していたのか? イエスの愛した弟子とは誰か?[ヨハネ]

バラバとは? イエスの十字架を背負わされたシモンとは? 

マルコにおける、墓にいた真っ白な長い衣の若者は、天使にしては実体がありすぎるし、ルカでは明らかに人となっている。しかし、マタイでは主の使い、ヨハネでは天使となっている。まばゆいばかりの衣と描写されたルカを除けば、白い衣をまとっているところが共通しているこの存在は、果たして人間か天使か? 人間だとすれば、イエスと密接な関りがあるはずだ。

イエスの遺体を引き取った、富豪アリマタヤのヨセフ。十字架刑のあった場所に園があり、新しい墓まであったという[ヨハネ]が、そこは遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフと関係のある場所か? 

新約聖書には説明不足の断片が、無造作に散らかされているように感じられたのだった。

当時、ユダヤの秘教哲学であるカバラにも触れたため、わたしには難しすぎてわからなかったにせよ、それが非常に高度で洗練された哲学体系であるということはわかり、このような輝かしいまでの哲学体系を生んだ民族から、みずみずしい、わかりやすい言葉で深みのある哲学を語るイエスが出て来たのもわかる、と頷けた。

その目で新約聖書を読むと、ユダヤ人がひどく戯画化されているように感じられた。ユダヤの民は混乱した愚かな人々で、ローマは支配するべく支配しているといった風に読めたのだ。ダビデ王、ソロモン王なども、伝説としか想えない雰囲気がある。

当時――30年も前だ――は、『ル=レンヌ=シャトーの謎』のように、イエスの生きた時代のパレスチナについて、詳細を語ってくれた著書を見つけることはできなかった。また、1世紀に書かれた、イエスと同時代の記述を含むユダヤ人の歴史を描いた壮大な『ユダヤ古代誌』、ユダヤとローマ帝国の戦争を詳述した『ユダヤ戦記』も知らなかった。

『ル=レンヌ=シャトーの謎』によれば、わたしが引っかかったカナの婚礼は多くの情報を秘めているらしい。

まず注目すべきは、イエスが母にいわれて水をワインに変えた量で、それがボトルにすると、どれくらいの本数になるかということだ。

それは、石の水がめが6つで、1つが2~3メトレテス入り。ヨハネの註に、2~3メトレテス=80~120リットルとある。ということは、480~720リットル。

600リットルはボトルにすると800本になるそうだ。それほどまでに大量のワインが、追加分として客たちにふるまわれたというわけなのだ。この話をすると、娘が「わぁ、ワイン製造業者みたい」といった。

そこからだけ見ても、カナの婚礼が大規模のもので、高貴な家柄か貴族階級の贅沢な儀式であることを表しており、そこにイエスと彼の母が出席していたことから、彼らも同じ階級の人間と考えられるという。日本では町ぐるみのイベント以外考えられないため、昔読んだとき、わたしにはこの場面の聖母マリアから、炊き出しのおばさんが連想されて仕方がなかった。

 カナの婚礼はイエス自身の結婚式だったのではないか、と前掲書はいう。そうであれば、聖母マリアがワインの心配をするのもわかるわけである。《そう推理する根拠として、ヨハネからの引用あり。今は時間がないので、抜粋をのちほど挿入します。》

福音書のなかでイエスはしばしばラビと呼ばれるが、このことからも、彼がラビ教育を受けられる階級に属していたことがわかるだけでなく、イエスがラビであったとすると、そこからは別の重要な情報が引き出せるらしい。

ラビは結婚した男でないとなれなかった(ユダヤのミシュナー法)。

ラビが結婚しているのは当然なので、あえて福音書が既婚の事実に触れなかったともいえることになる。独身でありながら伝道するということのほうが当時のユダヤ社会では異常なことで、もしそうであれば、むしろ彼の独身について明記してあったに違いないという説も成り立つわけなのだ。

イエスが結婚していたとすると、その相手はマグダラのマリア以外には考えられない〔Notesの過去記事参照〕。以下はイエスに関する前掲書からの抜粋。

イエスがマグダラと結婚していたならば、その結婚にはなにか特定の目的があったのだろうか。つまり、普通の結婚以外になにか重要な意味があったのだろうか。王朝的なつながりや、政治的な意味合いや影響があったのだろうか。この結婚によって続く家系が、「王家の血筋」を完全に保証したのだろうか。
マタイ福音書には、イエスはソロモン王やダビデの直系で、純粋の王家の血筋を引く人物であると明確に述べられている。これが本当ならば、イエスは統一パレスチナの正統継承者、しかも唯一の正当な継承者と主張することができる。そして、イエスの十字架の銘[INRI、つまり「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」]は単なる残虐や嘲笑のためではなく、まさに「ユダヤ人の王」を意味している。イエスの地位は、さまざまな面で1745年のボニー・チャーリー王子の立場とよく似たものであった。つまり、イエスこそがユダヤの国と人を束ねられる祭司王の資格をもつ人物で、この資格のために敵対者のヘロデやローマにとって深刻な脅威と考えられたのだろう。

イエスがそうした人物であったとすれば、マグダラも同じ階級の人間であったと考えるほうが自然で、伝説では、彼女は王家の血筋といわれ、別の伝説ではベニヤミン族の出身ということになっているらしい。

ベニヤミン族からは、イスラエル最初の王サウルが出た。王位は、ユダ族のダビデに奪われた。以下は前掲書からの抜粋。

ここまでくると、政治的な匂いのする一貫した歴史的な筋書が浮かび上がってくる。イエスは正統の王位継承権をもつダビデ直系の祭司王であった。彼は象徴的に重要な意味をもつ王朝間の結婚によってその地位を確固たるものにした。イエスは国の安定を保つため、土地を統一し、自分を支える人民を動員し、敵対者を追いだし、下賎な傀儡王を退位させることで、ソロモン王の栄光に満ちた君主制を復活させようと考えた。このような人物こそ、まさに「ユダヤ人の王」である。

昔、福音書を読んだときに、あまりにも預言と結びつけた言葉が多いことに驚いた。イエスは預言を演出し、預言のいうメシアであろうとすることに全身全霊を傾けていると感じられたのだ。

その悲願の強さに打たれ、わたしは当時、『入京』という下手な詩を作ったほどだった。

そのように、イエスとユダヤ教、ユダヤ民族との結びつきは異常なくらいに強いように見えるのだが、一方でキリスト教は、イエスを彼本来の願いと民族的伝統から、極力引き剥がそうとしてきたようにしか想えなかった。

イエスがローマ化、大衆化されたことは明らかで、それによって表面的なグローバル化は可能となったのかもしれないが、損なわれたものも大きかったのではないだろうか。死海文書、『マリヤによる福音書』、ナグ・ハマディ文書などは、そうした過程で闇に葬られようとした記録といえるだろう。

損なわれることがなければ、東西を分裂させずに済む本当のグローバリゼーションが可能となったのかもしれなかった。否、それは今からでも遅くはないのではないだろうか? 

わたしの疑問は『ル=レンヌ=シャトーの謎』の著者たちが抱いた疑問の一部に当たっていて、彼らはそれらについて丹念に調査している。

例えば、白い服だが、エッセネ派はイエス当時の聖地では珍しい白い服を着ていたそうだ。白い麻の衣服は重要な儀式を意味していたという。そうだとすれば、イエスとエッセネ派にはつながりがあることがわかる。

メモになるが、前掲書によると、イエスの愛した弟子とはラザロ。バラバとはイエスの子ではないかという推理。イエスの十字架刑が行われた場所はローマ管理下の公開処刑場ではなく、アリマタヤのヨセフの私有地だった。十字架につけられた人物がイエスであったという通説に対して、前掲書では疑問を呈している。

《これから外出の予定で、今日のところは時間切れです。このあと、『ル=レンヌ=シャトーの謎』からイエスが生きた時代のパレスチナについて抜粋し、聖母子像についての私的疑問を書くつもりでしたが、記事を改めることにします。この記事も、まだ書きかけと思ってください。》

マダムN 2010年4月15日 (木) 16:15

ざっと調べたい作家

  • ラ・フォンテーヌ
  • シャルル・ノディエ
  • ヴィクトル・ユゴー
  • ジャン・コクトー

『レンヌ=ル=シャトーの謎』に、意味深に出て来るから……。

『黄金伝説』《マグダラの聖女マリア》の章、『フランスにやって来たキリストの弟子たち』についての私的疑問

『黄金伝説』訳注に「十字架とどくろをもっていることもある(苦行の象徴)。」とあるが、苦行の象徴がどくろだなんて、信じられない。マグダラのマリアとどくろは、切り離せないところがあるようだ。なぜだろう? 

『黄金伝説』にも、『弟子たち』にも、異様としか想えない箇所がある。

サント=ボームの洞窟、「ここでマリアはつねに、俯せに、もしくは下腹を下にしてすごしていたといわれます。」
「マリーはたえず、泣いてすごしていたともされています。」
「一説に、マドレーヌは、ここへ登ってくる前、ヌヴォーヌの谷ですべての衣服を脱ぎ捨てて、もはや「恥じらいの覆い」は一枚もつけないでいられる状態になっていたとも伝えられます。」

マリーもマドレーヌもマグダラのマリアのことだが、まる裸でいられるのは狂った人か、もしかしたら悟った人もそうなのかもしれないが、いずれにせよ、そんな境地にある人間が30年間も洞窟でメソメソ泣いていられるとは、信じられない。

いつも俯せに?

こうした状態からわたしが連想するのは、愛を観想する人間ではなく、どこかが病気か、幽閉されているか、死んだ人間かだ。

『黄金伝説』にも、領主夫妻と子供に関して、異様な記述があちこちにある。

岩礁=岩の島に、子供が「よく浜辺に出ては、無心に砂や石遊びをしている」とあるような浜辺があるのは変で、その子供も3歳くらいかと思う描写のすぐあとで、母の乳房を吸っていたりする。

しかし、この子供は父が2年前に岩礁に置き去りにしたときも、「母の乳房をもとめては泣き叫んだ」のだ。

2年後のこととして描かれているのは、すぐあとのことではなかったのか? 岩礁ではないどこかの浜辺で遊んでいる子供のことは、何年もあとのことでは? 

岩礁には洞穴があり、そこに領主は妻の遺体を運んだとあるが、この洞穴はサント=ボームの洞窟と重なる。

もしかしたらマリアは死んだか病気になったか幽閉されたかで、子供を育てられなかったため、領主夫妻が引き取って育てたのでは?

というのも田辺先生の『弟子たち』に、勿論伝説として紹介されているのだが、

実は、マグダラは、イエスの妻であって、二人の間には少なくともひとり以上の子どもがあったといわれます。南フランスのユダヤ人共同体にまぎれこんでマグダラは子供を育て上げ、その子孫が5世紀には、北方から進出してきたフランク族の王族と結ばれて、メロヴィング朝(フランス最初の王朝)を創始したのだそうです。

とあるからで、あるいは砂浜で遊んでいる子供と母の乳房を求めた赤ん坊は別人なのかもしれない。

この岩礁(岩の島)の赤ん坊、浜辺の子供については、時間的な置換がなされているか、二人の子供に関する出来事を一つにしてしまっているとしか思えない。

マグダラのマリアたちは、何らかの犯罪に巻き込まれて海に流された。

もしかしたら、マリアと赤ん坊は亡くなってしまい、もう1人いた男の子を領主夫妻が引き取ったのかもしれない。

マリアも元気だったと思いたいが、『黄金伝説』に描かれた二つの船旅(マリア一行の船旅、領主夫妻の船旅)はどちらも嵐に襲われるのだ。これも、一つの船旅を二つに分けたからではないだろうか?

マリアの死を隠蔽するために、領主の妻の死を創出する必要上――。そうでなければ、なぜ伝説は領主の妻の死などを長々と描写するのだろう? そのあとで、復活までさせなくてはならなかった。また、その子供なども長々と描写するのだ。

漂着後に領主一家との関りがあった後は、マリアの名が出て来る話としては、次はもうサント=ボームの洞窟へ隠棲した話が来るだけだ。

マリアが南フランスで永く暮らし、精力的に宣教して隠棲したのだとしたら、隠棲前のもっといろいろな話が伝わっていてもよさそうなものではないか。

漂着後すぐに領主夫妻に子宝をさずけ、復活させた奇跡譚があるだけで、あとは洞窟で俯せになって30年間メソメソ……いや愛を観想していたという話にしかつながらないのは、どう考えても不自然だ。

第一、人に子宝をさずけ、復活させるほどのことができる聖女でありながら、洞窟に籠もる必要があるのだろうかと素朴な疑問がわいてしまう。

マリア一行が南フランスにペテロとは異なるキリスト教を広め、それが中世に異端カタリ派が発生するための土壌となったことは確かだろう。

その異端カタリ派は西欧の仏教といわれ、そのことは、『マリアによる福音書』で、マリアがイエスから個人的に教わったという内容とは響き合うものがある。

マグダラのマリアその人の運命がどんなものだったかは、「神のみぞ知る」だが。 

黄金伝説 1
ヤコブス・デ・ウォラギネ (著), 前田敬作 (著), 今村孝 (著)
出版社 : 平凡社 (2006/5/15)
ISBN-10 : 4256191054
ISBN-13 : 978-4256191057

今日中に図書館に返してしまいたいので(ヨセフスの『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代誌』を借りるために)、中世に著わされた聖人伝説集『黄金伝説』にマグダラのマリアがどう描かれたか、メモしておきたい。
以下はヤコブス・デ・ウォラギネ『平凡社ライブラリー 578 黄金伝説 2』(前田敬作・山口裕訳、平凡社、2006年)の著者紹介から。

ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230頃―98)
ジェノヴァ近郊ヴァラッツェの生まれ。
ドミニコ会士。ロンバルディア管区長を経て、ジェノヴァ市第8代大司教(1292―98)。
神話文学としての聖人伝説は、カイサリアの司教エウセビオスの『教会史』(4世紀)を嚆矢とするが、多くの聖人伝作者の手によって、さまざまな異教伝承や土俗信仰を摂取しつつ、福者ヤコブス・デ・ウォラギネが集成した『黄金伝説』においてみごとに結実する。
中世において聖書とならび、もっともひろく読まれた書物として、キリスト教的ヨーロッパの教化に役立ち、造形芸術のもっとも重要な霊感の泉となった。
書名の〈黄金〉は同時代人が冠した美称。
他に『ジェノヴァ市年代記』(1297)、『説教集』、『マリア論』などが知られる。

以下は、前掲書「九一 マグダラの聖女マリア」から。

マリア(Maria)とは、〈苦い海〉を意味する。あるいは〈明るく照らすひと〉または〈明るく照らされたひと)という意味である。これによって、マリアが選んだ最良のものが三つあったことがわかる。すなわち、悔悛あるいは痛悔、内面の観想、天国の栄光の三つがそれである。

マリアが選んだ最良のもの――つまり、マリア特有の性格として挙げられた第一のものは、人口に膾炙したマグダラのマリア像――彼女は娼婦であったとされている――の反映といってよい。注目すべきは、第二の《内面の観想》だろう。

この《内面の観想》については、訳注がある。以下。

マグダラのマリアは、中世初期には観想生活の象徴とされた。『ルカ』10の39以下の記述から内省的観想的な性格と考えられたのであろう。悔悛者の模範と見なされるようになったのは、中世後期のことである。

これは驚くべきことである。瞑想者としてのマリア像が、娼婦像としてのマリア像に先んじているのだから。ここで、『マリアによる福音書』を思い出しておきたい。マリアがイエスの教えを語る場面で、彼女は次のように話し出す。以下は、岩波書店版『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』)からの抜粋。

「私は一つの幻のうちに主を見ました。そして私は彼に言いました。『主よ、あなたを今日、一つの幻のうちに見ました。彼は答えて私に言われました。『あなたは祝されたものだ、わたしを見ていても、動じないから。というのは叡知のあるその場所に宝があるのである。
 私は彼に言いました、『主よ、幻を見る人がそれを見ているのは、心魂〈か〉霊(か、どちらを)〈通して〉なのですか』。
 救い主は答えて言われました、『彼が見るのは、心魂を通してでもなければ、霊を通してでもなく、それら二つの真ん中に〔ある〕叡智、幻を見る〔もの〕はそ(の叡知)であり、そ(の叡知)こそが……

残念ながら、このマリアの会話には欠損が見られるのだが、マリアはここで瞑想の技法を語っているといってよい。後にパウロがイエス体験を、あなた任せ的、盲目的……神秘主義的にいってしまえば、霊媒的にしたのと比較すると、対照的である。

ブラヴァツキー夫人は人間の本質を七本質に分類する。アストラル体(肉体の原型。プラーナの媒体)、プラーナ(気。生命原理)、カーマ(欲望)、低級マナス(カーマ・マナス。低級自我)、高級マナス(ブッディ・マナス。高級自我)、ブッディ(霊的魂)、オーリック・エッグ。
マリアの話のなかで、イエスのいう叡知というのは、高級マナスのことではないかと思われる。

ブラヴァツキー夫人によると、カーマすなわち欲望を全て殺し、これを上向きの清浄な欲求に置きかえることができたら、七重の構成体が変容し、高級三つ組は浄化した低級マナスを受け入れて高級四つ組になるという。死すべき四つ組はカーマが消えるため、低級三つ組となる。これが解脱した人の様子だという。

ブラヴァツキー夫人は、高級本質で思考を行う人達は少数派といっているが、マリアは、高級本質で観想することの重要さを(おそらくは生前の)イエスから教わったのだろう。そして、マリアという女性は、教わる以前にそれを自ら行いうる優れた弟子だった。マリアの話から推測すると、生前のイエスはマリアに瞑想の指導を行っていたと考えられる。

ナグ・ハマディ文書が伝えるマリアのこうした志向性は、『黄金伝説』が伝える30年間の隠遁生活(場所は訳註によると、マルセイユ近郊にあるサント=ボームの洞窟)と響き合うものがあるだけでなく、中世初期には、彼女は観想生活の象徴とされていたというのだ。

教父たちの聖書解釈によって『ルカ』7の37以下の〈罪の女〉およびベタニアのマリアと同一視されるようになったためと考えられる。この間違った同一視は、伝説化の恰好の温床となり、10世紀イタリアでエジプトのマリアの伝説から借用した新しい伝承が成立、それがフランスに入り、12世紀プロヴァンス地方で痛悔(あるいは贖罪)する隠修女としての伝説が完成した。本章の物語は、上の同一視にこのプロヴァンスの伝説を結合したものである。……(略)……なお、このような伝説化は、西欧でのみおこなわれ、東方では、早くからイエスに随伴した婦人たちのひとりとして知られているだけである。

マグダラのマリアは、〈罪の女〉、ベタニアのマリア、エジプトのマリアと一緒くたにされてしまったようだ。
次に、マグダラのマリアの出自に関するものを『黄金伝説』から抜粋しておきたい。

マグダラのマリアは、〈マグダラ城〉とあだ名されていた。門地は、たいへんよかった。王族の出だったのである。父の名はシュロス、母はエウカリアといった。弟のラザロ、姉のマルタとともに、ゲネサレト湖から2マイルのところにあるマグダラ城とイェルサレム近郊のベタニア村と、さらにイェルサレム市に大きな地所を所有していた。しかし、全財産を3人で分けたので、マリアはマグダラを所有して、地名が名前ともなり、ラザロはイェルサレムを、マルタはベタニアを所有することになった。

マグダラのマリアは王族の出で、マグダラの領主だったという。彼女が、イエスの死後14年目に南フランスに船で漂着した経緯について、以下に抜粋。

われらの主がご昇天になり、ステパノがユダヤ教徒たちの石打ちによって殉教し、ほかの弟子たちがユダヤの地から追われたあと、主のご受難からかぞえて14年目、弟子たちは、さまざまな国に出かけていって、神の言葉を宣べ伝えていた。そのころ、主の72人の弟子たちのひとりの聖マクシミヌスは、使徒たちと行動をともにしていた。聖ペテロは、マグダラのマリアをこのマクシミヌスの手にゆだねた。ところで、弟子たちがちりぢりになったので、外道のやからは、聖マクシミヌス、マグダラのマリア、弟のラザロ、姉のマルタとその忠実な仕え女マルテイラ、生まれながら見えなかった眼を主に治してもらった聖ケドニウス、そのほか多くのキリスト信徒たちをいっしょに船に乗せ、海上につれだして、舵をとりあげ、ひとりのこらず海の藻くずにしようとした。しかし、神の思召しのおかげで、船は、マッシリア(マルセイユ)に漂着した。

ペテロがマグダラのマリアをマクシミヌスの手にゆだねた、とはどういうことだろう?  どうも、ペテロとパウロのすることには疑わしい言動が多い。訳注には、マクシミヌスと聖ケドニウスの名前は聖書にはないとあった。

また、『黄金伝説』で、長々と描かれるマリアとマルセイユの領主夫妻との間に起きる珍妙な出来事は、一体何だろう?

マグダラのマリアは領主夫妻に子宝をさずけたばかりか、岩の島で死ぬ運命だった子供――男の子だ――はマグダラのマリアに救われ、育てられる。二年間もである。一方では、マリアはマルセイユで説教するなど、宣教にも忙しかったようだが……。

マリアたちが漂着してすぐに子宝の話が始まるおかしさに加えて、一層おかしなことには、不自然なペテロの介入があるのだ。受け身の描かれかたではあるのだが、怪しい。

順序立てて紹介すると、偽神に子宝をさずかる願をかけようとしたマルセイユの領主は、マリアにとめられ、キリスト教の信仰を説かれた。領主は、マリアの信仰が真実であるか確かめたいといい出し、マリアはそれに対して、聖ペテロに会うようにと促す。領主は、マリアに男の子をさずけてくれたならそうするという。夫人はみごもる。

ペテロに会いに行くという領主に、身重の夫人は無理について行く。マリアはお守りの十字架をふたりの肩に縫いつける。一昼夜航海したとき、嵐に遭い、夫人は船の中で男児を産み落とした後で死ぬ。困った領主は、母の乳房を求めて泣く赤ん坊と亡骸を岩礁に置き去りにする。

ローマのペテロに会いにいった領主は、2年間をペテロと共に過ごす。帰途、赤ん坊と亡骸を置いた岩の島に寄ると、赤ん坊は愛くるしく育っていて、領主が妻のことをマグダラのマリアに祈るうちに、妻はまるで『眠れる森の美女』のように目を開ける。

この子宝物語は、マグダラのマリアの章のうちの1/3を占める。マリアたちが宣教するにあたって、領主の許可は必要だろうが、これはどう考えても不自然な話ではあるまいか。わたしは思わず、神功皇后の話を連想してしまったくらいだった。

こんな伝承も、イエスとマグダラのマリアの間に子供があったのではないかという憶測を呼ぶのだろう。万一そうであったとしたら、マリアたちが何者かによって海に流されたのは、イエスの死後、間もない時期であったということになる。

そして、マリアたちの乗った船は嵐に遭い、イエスの子供をみごもっていたマリアは船のなかで出産した。こう想像していくと、嫌でも、『レンヌ=ル=シャトーの謎』の著者たちがとり組んでいたイエスの血脈というテーマが思い出される。

イエスの一番弟子を自任していたペテロ。一方、グノーシス文書が伝えるマグダラのマリアは、イエスの一番弟子として愛されていた。
著者たちが推理したように、もしイエスが宗教の改革者としての側面だけでなく、王位継承権を持つ人物であったとしたら、どうだろう? マリアがイエスの子供をみごもっていたとしたら?

マリアが30年間も洞窟に隠棲したというのも、いささか不自然な話ではある。修行しながら宣教する道もあったはずだ。しかし、隠棲せざるをえなかったのだとしたら? 

つまり、流刑のような目に遭い、幽閉されていたのだとしたら? マリアが彼女の側にいたと想われる人々と海に流されたのは、まさにイエスの子供をみごもっていたからだとしたら? また、マリアが娼婦とされたのは、彼女のおなかの子をイエスの子と認めたくない者たちの喧伝によるものだとしたら?

『マリアによる福音書』におけるペテロとマリアの対立から見ても、イエスの死後、マリアは敵に等しい弟子仲間と行動を共にしていた。
仮に、マリアがイエスの子供をみごもり、そう主張したとしても、それを証明することはできなかっただろう。

マリアが冒涜者であり、風紀を乱すとんでもない女とされて、海に流されるということがあったとしても、おかしくはない。
いずれにしても、『黄金伝説』に描かれたマグダラのマリア伝説には、何かが隠されている気がする。わたしは童話を書くに当たって、洞窟に幽閉された乙女の姿が浮かんで仕方がなかった。そこから、こんな読書の森に迷い込むことになろうとは、想像もしなかった。

誰の子であれ、わたしには岩の島で育てられた男の子が忘れられなくなってしまった。ウォラギネの描写力のせいかもしれないが……。

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