№93で、カタリ派は絶えたと書いたが、以下の本を読むと、その精神は受け継がれていたことがわかる。

フランス・プロテスタントの反乱――カミザール戦争の記録 (岩波文庫)
カヴァリエ (著), 二宮 フサ (翻訳)
出版社: 岩波書店 (2012/2/17)

カザミール戦争が何であったのかは、Wikipediに以下の説明がある。

カミザールの乱:Wikipedia 

カミザールの乱(フランス語:La guerre des Camisards)とは、1702年から1705年にフランス王国で起こったプロテスタント(ユグノー)の反乱。セヴェンヌ戦争(La guerre des Cévennes)とも呼ばれる。 フランス南部のセヴェンヌ山脈を本拠地として反乱は拡大、国王軍は完全鎮圧に3年を要した。

『フランス・プロテスタントの反乱――カミザール戦争の記録』は、指揮官カヴァリエの回想記。わずか2,000人の農民が25,000を超えるルイ14世の国王軍を敵にまわして、戦ったという。農民を蜂起させたのは絶望だった。その蜂起はレジスタンスの性格を帯びていた。

そして、迫害の大きさ――捕まれば、投獄されてひどい拷問の末にガレー船か絞首台――にも智恵を用いて溌剌と立ち向かう清新な気、充実した宗教教育、思いやりなどはカタリ派と共通したものだ。

読み始めてすぐに、カタリ派について調べる過程で知った土地の名――ラングドックが出てきた。

「しまいには彼らはわれわれの牧師を一人残らず逮捕するか追放したから、われわれは集会なしのままでいた。最後に逮捕された牧師はロマン氏で、彼は聖マグダラ祭の日に、集会から帰る途中につかまった」という、聖マグダラが出てくるページには付箋を貼りたくなり、そうした(図書館に返すときは、忘れないように剥がさなくては)。

カヴァリエは両親、特に母親から教育を叩き込まれたようである。母親は聖書を熟知しており、多数の祈祷書、論争書、説教集を隠しておいて、カヴァリエに読ませた。

聖書を読んでいるうちに、わたしは、ローマ・カトリック教会の教義と絶対に矛盾するいくつもの箇所にぶつかった。母は、それらの箇所について自分でよく考えなさい、と言った。そうやって母は、わたしの年齢と頭で可能なかぎり、プロテスタントの信仰の真実と教皇信仰の誤謬を、自分で発見できるようにしてくれたのである。

母親は彼女の信仰に従って子供たちを教育し、教皇教の誤謬を証明してみせた。家に説教にやってくる宣教師たちと宗教問題を議論して相手をやりこめたりしたために、父親共々ひどい迫害を受けることになった。

カヴァリエの記述から、カタリ派の祈り(カタリ派の「主の祈り」では「わたしたちの日々のパンを、きょうもお与えください」ではなく「わたしたちの物質を超えたパンを、きょうもお与えください」となっていた。※原田武著『異端カタリ派と転生』(人文書院、1991年)参照)や、グノーシスを想わせる教義を見出すことはもはやできないが、宗教教育の性格やそれがカヴァリエに与えた影響にはカタリ派を連想させるものがある。

ここで、カヴァリエによる前書から、カタリ派に触れた箇所を抜き書きしておこう。47~48頁より。

ここで、本書の語る史実が、狂信、迷信、迫害と闘うセヴェンヌの民の登場する痛ましい記録として唯一のものではないことを指摘するのは、たぶん無駄ではなかろう。セヴェンヌの民は、ルターやカルヴァンの宗教改革よりもずっと前に教皇庁の誤謬と腐敗に異議申し立てをしたことで有名な、かのアルヴィジョアとヴァルド派の子孫である。彼らは使徒たちの時代から同じ教義と同じ礼拝を守り抜いて、かつて一度も改宗したことがないことを誇りにしていた。事実、数多くの状況からしてこの主張はごくもっともである。……(略)……
 先祖と同じ貴い信条のために苦難に耐え、財産を失い、祖国からの逃亡を余儀なくされたわれわれにとって、彼らより恵まれているのは、ローマ教会への服従から脱して、真実にして純粋なキリスト者の自由の原則を奪回した信仰上の兄弟たちのもとに、避難場所を持っていることである。……(略)……
 われわれは不可謬性を求めないのだから、間違っていないのはわれわれだけだ、と独断的に宣言しないことにしよう!
 われわれは聖書を信仰の唯一の掟としているのだから、これに反する他の掟は立てないことにしよう!
 われわれは、われわれの宗教の最高の性格は愛である、と宣言している以上、どうかわれわれの確執が偏見と固執だけに由来するのでないことを!

注に、アルビジョワは南仏カタリ派の地方的呼称とある。カヴァリエは自分たちをカタリ派とヴァルド派の子孫だと明言しているのだ。

わたしはここで、現代フランスを代表するアナール学派の中世史家ジャック・ル・ゴフの『子どもたちに語るヨーロッパ史』(前田耕作監訳、川崎万里訳、ちくま学芸文庫、2009年)を思い出した。

そこでは「異端はヨーロッパ中にいたのですか」という問いに対して、以下のような説明がなされている。233頁。

 そうですが、十三世紀から十四世紀のドイツ、フランス南部、北イタリアでとくに多かったのです。これらの地域ではたびたび異端として有罪判決が下され、火刑が頻発しました。最も有名なのは〈カタリ派〉で、みなさんも耳にしたことがあるでしょう。カタリ派はフランス西部のトゥールーズ地方、アルビなどに共同体をつくりました。彼らは自分たちだけが罪を免れており、〈不浄なものである〉一般信徒の罪は教会では清められないと考えていました。教会はフランス南部の異端派にたいし、十三世はじめにアルビジョワ十字軍を送りました(カタリ派のモンセギュール城は陥落し、城を防衛した者たちは火刑に処されましたが、城は残って有名になっています)。

このカタリ派観の違い!