新プラトン派の最後を飾るヒュパティア。
彼女をモデルにした『アレクサンドリア』という映画のことを前ノートで採り上げたが、まだ観たわけではないので、実際に観てどう感じるかはわからない。
ヒュパティアが一般的な人気を集めている理由は彼女の美貌と悲劇的な最期だろうか?
タイトルにアレクサンドリアとあるように、ムーゼイオンと大図書館を花芯として麗しく輝いていた学術都市アレクサンドリアを象徴するかのようなヒュパティアの最期は、映像芸術の上質なテーマとなりそうな気がする。
ヒュパティアは新プラトン派に属していた。彼女の死と共にアレクサンドリアの新プラトン派は途絶え、それと同時に真に自由で誇り高い学問のありかたまで、表舞台からは完全に退いてしまった。
ああした学問のありかたと比べると、今の学問は形骸化しているというか、学問しているふりをしているという感じさえ、抱かずにはいられないほどだ。
わたしは大学時代に、プラトンや新プラトン派の著作を読み、そんな風に思った。そして、神髄に触れた解説を探しているうちにブラヴァツキー夫人の著作に出合った。
ブラヴァツキー夫人は新プラトン派について、「アレクサンドリアのアンモニウス・サッカスが西暦2~3世紀に創設した哲学派。真理愛好家、類推論者のことである。また、テウルギー師とも、いろいろな名でも呼ばれた。西暦初期の神智学徒たちである。新プラトン主義とは、プラトン哲学にエクスタシーつまり神聖なラージャ・ヨガを加えたものである」(『神智学の鍵』神智学協会ニッポン・ロッジ、昭和62年)と解説している。
尤も、一般的にはプロティノスをもって新プラトン派の始まりとするようだが、『世界の名著 続2 プロティノス ポルビュリオス プロクロス』(責任編集=田中美知太郎、中央公論社、昭和51年)の解説に「ある意味では新プラトン派の創設者であるアンモニウスという人の生涯については、史料がきわめて乏しい」とあり、そのため、アンモニウスよりも、アンモニウスを師としたプロティノスを始まりとするのだろう。
ブラヴァツキー夫人の解説にあるラージャ・ヨガというのは、瞑想によって悟りの境地に入る修行法のことである。プロティノスがどの程度インド思想の影響を受けたのかは、わたしはインド思想に詳しくないのでわからないが、なるほどプロティノスの著作には瞑想と切り離せそうにない独特のムードがある。
リルケは、プロティノスの影響を受けているそうだ。
プロティノスがなつかしくなったので、前掲書『世界の名著 続2』に収録されているプロティノスの作品のうち『美について』から、以下に断片を拾ってみたいと思う。
この感性界の美は(あの知性界の美の)映像にすぎず、いわば(あの世から)抜け出し、素材(界)に降りてきてこれを飾りつけ、(その素材を身にまとって)姿をあらわし、われわれをびっくりさせる亡霊(影)のようなものなのである。
次に、感性界の美よりも先にある美についてであるが、これはもはや感覚ではとらえられず、魂が感覚器官を用いないで見たり語ったりするのであって、この美を観るためには、感性界から上の世界に昇っていき、下の世界に留まっている感覚をかえりみないようにしなければならない。
ところで、感性界の美のばあい、これを見たこともなければ、美を理解したこともない人びとに――たとえば、生まれた時から目の見えない人が、これに相当する――その美しさを語るのは不可能であるが、同じように、人びとのいろいろな営みの美しさについても、これらの営みの美しさや諸知識の美しさ、その他これに類するものの美しさを認めたことのない者たちに、これを語ることはできないし、また、正義や節制の容姿が宵の星や暁の星もこれほど美しいということに思いをはせたことのない者たちに、徳のすばらしい輝きについて話すこともできないだろう。
しかしながら、魂がこの種の美を観る時に用いる内的な眼を使って、この美を観る人びともいるにちがいない。そして彼らはこれを観ると、歓喜動転して、前に感性的な美を見た時とはくらべものにならないほど心をかき乱されるのは必定であって、その時こそ、まさに彼らは、真実の美に触れているのである。
魂は浄化されると、形[エイドス]となりロゴスとなって、まったく肉体のないもの・知性的なものとなり、すっかり神のようなものとなるのであって、美やこれに類するものはすべて、そこから湧水のように溢れ出てくるのである。それゆえ、知性[ヌース]の方に導きあげられた魂は、はるかにその美しさをましてくるのである。なお、知性や知性の領域にあるものは、もともと魂に固有の美であって、無縁のものではない。魂は知性界にある時にのみ、まことの美といえるからである。それゆえにまた、「魂が善きもの・美しきものとなることは、魂が神に似ることである」というのも正しい。美や真実在にかかわりをもつものは、神に由来するからである。
通して読むと、プロティノスの著作は音楽のような美しさだ。プラトンより観念的といえるだろうが、新プラトン派というだけあって、プラトン思想が下敷きになっていることが随所から感じとれる。
ところで、プロティノスにはグノーシス批判の著作がある。昔読んだきりであまり覚えていないので、再読してみたいと思う。(⇒読んだ。追記を参照されたい。)
解説に「一口にグノーシス派といっても多数の派があり」「グノーシス主義とプロティノスとの間には類似点もあって」とあるように、微妙なところがあるようで、プロティノスの周囲には様々な系統の思想が存在したのだろう。
グノーシス批判のプロティノスの著作の題名は『世界創造者は悪者であり、世界は悪であると主張する人々に対して』というものだそうですが、これは今のわたしにはどうしたって、カタリ派を連想させる。
ちなみに、中世のカタリ派はマニ教の影響を受けているといわれることがあり、205年生まれのプロティノスが37歳になった頃、ペルシアでマニがマニ教の布教を始めている。
追記:
プロティノスのグノーシス批判『グノーシス派に対して』『世界創造者は悪者であり、世界は悪であると主張する人々に対して』を読んだ。
読後感からすると、プロティノスが相手にしたグノーシスの一派はかなり低俗な迷信・霊媒集団だったという印象である。
神秘主義にピンからキリまであるように、グノーシス派にもピンからキリまであることがよくわかった。確かにグノーシスを連想させられる断片は含まれているものの、ここからは『マリアによる福音書』や「ナグ・ハマディ文書」に見られるような格調の高さも、また異端カタリ派に見られる合理精神や知的で清浄さを印象づけられるエピソードに通ずるものも何も感じられない。
そして、これはプロティノス側から見たものでしかない。
プロティノスのこの作品は有名なので、後世、これをもってしてグノーシス全般を断ずる向きがあったのかもしれないと思った。それはグノーシスにとってはあんまりな処遇だろう。
イエスには奇蹟的なエピソード(いわゆるテウルギーと呼ばれた神わざに属するものと思われる)や病人癒しのエピソードなどがあるが、当時――古代――はそうした技術は神秘家たちによってよく用いられていたようだ。そうした技術にもピンからキリまであったようである。神聖なものから有害なものまで。4月4日追記