創作ノート - 不思議な接着剤

執筆中の児童小説「不思議な接着剤」のためのノートです。 リンク、転載を禁じます。

カテゴリ: notes:不思議な接着剤31―40

 前にメモ参考資料としてメモしたエマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ『モンタイユー(上)』(井上幸治・渡邊昌美・波木居純一訳、刀水書房、1990年)から抜粋。

“ 被告は審理の進行中ずっと拘束されどおしとは限らない。

 次回尋問までパミエにある司教直轄の獄舎に監禁される場合もあったが、自分の教区あるいは司教管区内に居所を指定されるだけで、ある程度保釈が認められる場合もあった。反対に不慮の事故でもあれば、あらゆる強制手段が動員されて未決拘留は強化され、被告は自白するように仕向けられる。しかし拷問によって自白が引出されたとは思われない。被疑者の破門、「厳重」禁獄、「特別厳重」禁獄(脚に鎖をつけ、黒パンと水だけ与えて狭い独房に監禁)が効を奏したのである。ただ一度だけ、これはフランス王の役人が患者に癩患者に対して仕組んだでっち上げの事件だが、ジャック・フルニエは拷問を用い、ひき蛙の粉で泉を汚染したなどというわけのわからない自白を引出している。”

 ジャック・フルニエがパミエの司教を勤めたのは1317年から26年までだから、参考になるとはいえ、わたしがモデルとしたい1250年頃とはだいぶん隔たりがある。もう少し、異端審問制度について見ていきたい。

 これも前にメモした参考資料だが、渡邊昌美『異端者の群れ』(八坂書房、2008年)によると、法王グレゴリウス9世が、南仏における審問法廷設置を命じたのは1233年。これは、アルビジョア十字軍の副産物ともいえるもので、「異端審問は司教をとびこえて法王に直結する、法理的にはあくまでも非常の、特設法廷」という位置づけとなる。この制度の問題点は、「他からの提訴をまたず、みずから告発し、みずから断罪する」審理手続きにあった(やり放題ではないか!)。13世紀における、異端審問の手続きを見てみよう。以下は、『異端者の群れ』からの抜粋。

“〔略〕13世紀の手続きは大体次のようだったらしい。まず特定の村や町に審問官が到着すると、住民を集めて協力を宣誓させ、異端者と幇助者に自首が勧告される。一定期間内に出頭すれば、当然、量刑に手ごころが加えられる。この「慈悲の期限」ののちは一方的に、嫌疑者に文書または口頭で出頭命令が出されるが、逃亡が予想されれば拘禁も妨げない。
 訊問には、聖職者2名と書記の立会い、応答要旨の記録が必要である。有罪判決のためには、被告の自白、または証人2名の供述が不可欠だが、証人はすでに捕縛された異端者でもよいし、被告と対面して証言する必要もない。被告に弁護人をつけるか否かは一次議論を呼んだが、神の敵に手を貸す法はないとの意見が有力で、ベルナール・ギイの『審問官提要』は、よしんば弁護人がいたところでこれに耳を傾けぬのが審問官たる者の心得だとしている。
 刑罰は、罪の軽重にしたがって、火(火刑)や壁(投獄)の重刑から、巡礼、笞、あるいは衣服に悔悛の黄十字を縫いつけるなど、何段階にもわかれ、重刑には必ず全財産が併課される。
 宣告の日には「大法廷」が召集され、審問官は20名前後の参集者に対して訊問の概要を説明し、その同意を得て判決を確定する。重罪宣告の場合には、さらに司教の承認が不可欠であったし、犠牲者は法王に再審を願い出ることも不可能ではなかった。

〔略〕
 手続きはしばしば省略され、大法廷は、被告のみか参集者一同に対する威嚇の儀式となる。とりわけ問題は、悔悛の言を聞こうと焦るあまり、拷問が法王勅令をもって励行されたことだ。その方法も、鎖、飢餓、不眠などの初歩的なものから、鞭、木馬、逆吊り、燠火の高等四法まで何段階にもわたって工夫がこらされる。カルカッソンヌに審問塔の語りぐさを残したように、効果をあげるためには何年でも暗黒の地下牢に投ずることもあった。

〔略〕
 この特設法廷はやがて一つの制度となって、全キリスト教世界に拡大し、土地によっては18世紀まで存続する。その間、1人で10万件を審理し、火刑台の煙をあげること2千回に達したという半ば伝説的なセゴビアの大審問官、トルクェマーダの如き人物も輩出する。異端審問こそ、私たちのアルビジョア騒乱が歴史に残した、おそらく最悪の落とし子である。
 ところで、この恐怖の法廷だけが、異端を追及したのではない。むしろこれがすべてを蔽い切れなかったところに問題があったかもしれないので、非専門的な個々の追及の中にかえって衝撃的な事件を見出すこともあるのだ。
 1234年、トゥールーズ司教レモン・ド・ミルモンがミサ聖祭をおえて食卓につくべく、手を洗っていた時、異端の老婆が重病の床にあるむねの密告を受けた。司教は病床に駆けつけ、現世の軽んずべきことを説いて完徳者と錯覚させる。交際関係をことごとく聞き出した上、信仰を持して変わらずやとただす。予期した返答を得ると、にわかに汝は異端であると宣言し、老婆を病床もろとも広場に運んで焚刑を執行した。「かくてのち、司教と会士らは食堂に帰り、心も軽く、用意されたものを食し、神と聖ドメニコに感謝の祈りを捧げた」。ペリッソンの伝えるところである。”

 わたしが執筆しているのは児童文学作品であるから、物語として、子供にも読めるような淡い色調にしたいのだが、下書きのスケッチの段階では、歴史に根差したしっかりとしたものにしておきたい。

 竜を登場させる目的の一つは、物語にメルヘンの趣を添えたいということだ。また、竜の前に置かれた乙女という絵柄に拘りたい理由として、日本の生贄や人身御供の伝説を連想させたいということがある。

 カタリ派の悲劇、生贄や人身御供の悲劇からは、多数派のための少数派の犠牲という定式が透けて見える。社会というものは、いつの時代にも多かれ少なかれその定式を用いて存続してきたからこそ、文化の良心を代表する文学は、少数派や弱者を繰り返し描いては、犠牲の上に成り立つ多数派の幸福の本質とは如何なるものであるかの分析を行ってきたのだ。

 恥ずかしながら、わたしは自作童話『不思議な接着剤』を始めるまでは、ナグ・ハマディ文書や『マリヤによる福音書』ついてはほとんど知らなかった。その背後にどれだけの歴史的事実が隠されているのか、漠然としたことではあってもわかってきたとき、心底衝撃を覚えた。わたしにはそれは本当に、東西を結ぶミッシング・リンクと思われるのだ。

 何かしら不当な扱いを受けたことが窺えるマグダラのマリアは、少数派の象徴として描ける存在でもある。そこからは、男尊女卑の問題も濃厚に浮かび上がってくる。ネガとポジのように、知育絵本の段階にある男性使徒たちに対して、高等教科書の段階にあるともいえるほどのマリアの知的性格が伝わってくる。

 『マリヤによる福音書』から見える光景として、イエスは男性使徒たちには小学校の授業にあるような道徳的なことを、いわば大衆レベルで教え、マリアに対しては愛弟子として哲学を説いている。

 そのことに男性使徒たちは嫉妬して、そんなことは嘘だといっているのだ。理解力に応じたイエスの教育だったことが窺え、イエスは大衆レベルの教化が必要だと感じる一方で、彼しか知らないような高度な知識も教える必要を感じたのだろう。

 新訳聖書に、あれだけ優れた譬え話を残したイエスだ。あそこで語られたことが、大衆レベルに合わせて抑えられたものであることくらい、想像がつく。そう考えると、『マリアによる福音書』のような文書が多く残されていたとしても、少しも不思議ではない。むしろ、全くないのが不自然だろう。

 優れた児童文学作品を残した作家は、大抵大人向きの優れたものも残している。新約聖書は、わたしにはいわば児童文学作品のようなものに思われる。大人向きのものも読んでみたい、そんなものがないのは不自然だとずっと思ってきた。あるほうが自然ではないだろうか。

 いずれにしても、わたしはマグダラのマリアをモデルにしたマリーを描こうとしている。マグダラのマリアを描写しようなんて、大それた考えに、われながら怖気づく。


 №38で出した異端審問官は、紘平との会話に必要な最小限の仮の肉づけを行っただけで、実際の肉づけは、作品がその箇所に差しかかった時点で行うことになるだろう。

 その異端審問官についてだが、わたしは地裁で出会った最初の裁判官をモデルにしたいと考えている。

 あの冷淡さ、職務怠慢は、裁判を遅らせ、ボケの疑われる原告に訴えられた被告側に、無意味な準備書面の提出をどこまでも(と感じさせた。何しろ、いくら提出したところで、読んでいないことは明白だったから)強いるもので、わたしがお金持ちでさえあれば、訴えたいくらいだった〔参照:基幹ブログカテゴリー:父の問題〕。あのような人物は、どんな国にも、どんな時代にも存在する、最も危険なタイプといえるだろう。

 無意味な裁判を速やかに終わらせてくれた、地裁の2番目の裁判官の温厚で飄々としたキャラも忘れられない。物語でも、異端審問の途中で異端審問官が交替するという設定にしたら、面白いかもしれない。あわやというところで、そんなトリックスター的な出来事が実人生でも起きることを、わたしは知ったのだから。

 土壇場で異端審問官が交替し、次の異端審問官は事件の全容を調べ直す。とすると、№38で下書きした問答は、この交替した人間味のある異端審問官との間でなされることになるわけで、もっと物柔らかなムードが異端審問官を包むことになるはずだ。

 最初の異端審問官は、偏見と独断をあらわにした、自分本位の質問しかして来ない。交替した異端審問官は優秀なので、疑念を抱いた部分に関しては、追及を和らげないだろう。そして、交替した異端審問官は、妥当な判断を示し、子どもたちに追放を命じる。子どもたちはマリーを救い出す。

 うーん、これでは面白くないなあ。手に汗握る、という展開にしたいわたしとしては。

 異端審問官の登場を逆にしようか? 最初に、職務熱心で教養が深くて、真の意味の敬虔を宿した異端審問官が担当し、追放という判決が下ろうとしていたところに、司教の異動があり、職務怠慢で冷淡な異端審問官が赴任してくるのだ。そして死刑――火あぶりの刑が下る。

 最初の異端審問官はなるべく異端審問を長引かせようとし、次の異端審問官はさっさと切り上げようとする。

“ 丁寧に作品を進めてきて、最後の仕上げという段階で、その作品を手放さなければならない画家のような心境で、最初の異端審問官は、新しい赴任地へむけて旅立ちました。

 あの3人の不思議な子供たち、美しい錬金術師の娘、そして魔物とおそれながらも、異端審問で火あぶりの刑を下す口実として自分たちが利用してきた竜のことが、かれの胸をよぎりました[1]。

――竜のいる洞窟に被告を隔離し、竜に食べられたら被告は無実、食べられていなかったら魔物と結託した者として火刑台に送るという、馬鹿馬鹿しい裁判を自分たちは行ってきたのだ。それでも、わたしは、被告が逃げて、洞窟を無事に抜け出してくれることを願わずにはいられなかった。今回の事件では、あの美しい娘を救うのは無理でも、もう少しの時間さえあれば、3人の子どもたちを追放にしてあげることができたのだが……。”

 最初の異端審問官がひそかにマリーに恋していたという設定にするのも、ほのかなロマンスが花を添えていいかもしれない。

 紘平たちの武器というと、翔太にくっついたピアノ協奏曲の泣き声と洞窟にいる大人しい竜だけだ。さて、どうなるのだ? 彼らがどうすれば助かるのか、今の時点ではどうにでも考えられるが、物語のテーマと絡み、核心をつくような案でないと、採用することはできない。

 物語がそこまで進むには、まだ時間がたっぷりとある。ゆっくりと考えていこう。

 いずれにしても、最終的に、神獣となった竜は、真珠色のすばらしいオーラを空間いっぱいに輝かせながら、マリーをのせて、もっと安全な場所、エジプトの方角へ向けて飛び立つ。ここは、最高に壮大な描写にしたい。


[1]
2011.6.18

 異端審問にかけられるとすれば、世間からは魔女とされたマリーが正統とは異なるキリスト教を信仰していたということになる。彼女は異なる聖書を持ち、それを読むことができたという設定にしたほうがいいかもしれない。

 異端審問についてウィキペディアには以下のような解説が出ている。

異端審問
ウィキペディアの執筆者,2011,「異端審問」『ウィキペディア日本語版』,(2011年6月18日取得,http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F&oldid=37871521).

異端審問(いたんしんもん、ラテン語: Inquisitio)とは中世以降のカトリック教会において正統信仰に反する教えを持つ(異端)という疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステム。異端審問を行う施設を「異端審問所」と呼ぶ。一口に異端審問といっても中世初期の異端審問、スペイン異端審問、ローマの異端審問の三つに分けることができ、それぞれが異なった時代背景と性格を持っている。

なお、魔女狩りは異端審問の形式を一部借用しているが、その性格(異端はキリスト教徒でありながら、誤っているとされた信仰を持っている者であるのに対し、魔女・魔術師(魔法使い)はそもそもキリストを信じないとされる人々であるため全く別種)や実施された地域・時代が異なっているため、異端審問とは別種のものと考えるのが適切である。

目次
1 起源
2 中世の異端審問
3 スペインの異端審問
4 ローマの異端審問
5 その他
6 社会的な動き
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目

起源
異端審問は異端を根絶することを目的としたシステムであり、異端審問所とは異端審問を行う施設のことをいう。初期キリスト教においては、キリスト論など多くの神学論争が行われたが、コンスタンティヌス帝による公認以降、キリスト教とローマ帝国の統治システムが統合していくと、異種の教義理解を容認しておくことは統治システムの安定をゆるがすものと危険視されるようになっていった。それ以降、教義について異なる意見が提示された場合や意見の対立が起こった場合はしばしば教会会議や公会議によって討議・判断され、誤謬とみなされた説は異端として退けられた。この過程によってキリスト教神学は徐々に理論化され、確立されていった。このように「正統と異端」という問題では宗教問題という形式の裏に、常に政治問題と権力者の意向を見え隠れさせていた。異端審問が確立する以前は、異端審問は司教固有の権限とされていたが、それ以外にも世俗の権力であったり民衆であったりすることがあった。ラウール・グラベルの『年代記』によると、1022年には、フランスのオルレアンで10数人の異端者が捕縛され、当時のフランス王ロベール2世は火刑を命じたという。西洋史家の渡邊昌美によれば、この1022年のオルレアンでの事件が契機となって、異端の発覚が本格的になったという[1]。

西欧においては西ローマ帝国の滅亡とその後の混乱期においてキリスト教異端問題はあまり取り上げられることはなかったが、12世紀以降西欧の諸勢力が各地において権威の集中化を目指す中で、異端者が再び統治システムの安定を揺るがす危険分子とみなされるようになっていった。

中世の異端審問
中世における異端審問の数が増え始めた契機として、1022年にフランスのオルレアンで起きた、異端者の処刑事件がある。この事件が起きた際、オルレアンの会議に召集されたブルージュ大司教のゴーズランは、スペインのビック司教オリバに対し、異端の発覚を憂う手紙を書いている。その後、11世紀中盤までに異端発覚の報告が17件を達し、急増している。その後、11世紀後半には異端発覚の数が沈静化したものの、12世紀に入ると再び急増を始めた[2]。

12世紀に「中世の異端審問」と呼ばれる最初の異端審問が始まったのは、南フランスにおいてカタリ派がその影響力を拡大したことが直接の契機であった。先に述べたようにしばしば異端問題は政治問題であり、地域の領主たちが治安を乱すとして個別に地域内のカタリ派の捕縛や裁判を行っていたが、そういった従来の方法をまとめた形でだされた1184年の教皇勅書『アド・アボレンダム(甚だしきもののために)』(ルキウス3世)によって教会による公式な異端審問の方法が示された。そこで定められた異端審問は各地域の司教の管轄において行われていた。司教たちは定期的に自らの教区を回って異端者がいないかを確かめるというものだった[3]。

教会には一般的な司法権や処罰権がなかったこともあって、このシステムはそれほど厳密に適用されていなかったが、その後世俗の領主たちが教会の異端審問を補助する形で、異端審問で有罪判決を受けたものを引き取って処罰するようになると様相が一変した。特に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は第4ラテラン公会議が採決した異端審問のシステムを帝国法に取り込んで法制化し、自らの権限において最高で死刑にまで処することができるようにした。1230年代に入ると従来の司教たちが審問を行う形に替えて、教皇が直接任命した異端審問官が各地を回って異端審問を厳密に実施するようになった。このような形式を整えたのは当時の教皇グレゴリウス9世であり、異端審問官は当時学問の盛んな修道会として知られたドミニコ会員から任命されることが多かった。当時の異端審問がどのように行われていたのかを知るための資料としては1307年から1323年までトゥールーズの異端審問官を勤めたベルナール・ギー(仏: Bernard Gui、羅: Bernardus Guidonis ベルナルドゥス・グイドーニス)の著した『異端審問の指針』、1376年ごろに、スペインの異端審問官だったニコラウ・エメリコが「異端審問の指針」 などから知ることができる。この2冊は異端審問の教科書的存在で、特に後者の本については何度も印刷され、200年以上経った1607年にも再印刷されている[4]。なお、ギーの『異端審問の指針』に関しては、この本が登場する前から、かなりの異端審問官が書いた多くの異端審問の手引書が土台となっている。この中で知られているのが、1240年代前半に、タラゴナ大司教ペドロ・ダルバラの命令によってペーニャフォルテが執筆した『ペドロの助言』、1240年代末から50年代初頭にかけて、2人の異端審問官ギヨーム・レモンとピエール・デュランが書いた『ナルボンヌの訴訟手順』、13世紀後半の作者不詳の『異端審問について』である[5]。

この種の異端審問制度はドイツやスカンジナビア諸国など北ヨーロッパへも拡大していったが、ほとんど定着せず、場所によってはより穏健な形のものに変容していった。また、イングランドでは異端審問はほとんど行われなかった。中世の異端審問がどれほどの規模で行われたのかは正確に知ることは困難だが、現代の人々が想像するほど頻繁に大人数の処刑が行われたとは考えにくい。記録によれば、中世異端審問が最も活発に行われた1233年に南フランスの異端審問官に任命されたロベール・ル・プティは数百人に火刑を宣告したが、刑罰が過酷すぎるという理由で1年目で解任された。有名なベルナール・ギーは異端審問官を16年間の長きに渡って勤めたが、死刑を宣告したのは40件に過ぎなかった[6]。

スペインの異端審問
スペインの異端審問詳細は「スペイン異端審問」を参照

異端審問の歴史の中で特筆されるスペイン異端審問は中世の異端審問とはまた異なる性格を持つものである。15世紀の終わりになって、アラゴンのフェルナンド2世とカスティーリャのイサベル1世の結婚に伴ってスペインに連合王国が成立した。当時のスペインにはキリスト教に改宗したイスラム教徒(モリスコ)やユダヤ教徒(マラノ)たちが多くいたため、国内の統一と安定において、このような人々が不安材料になると考えた王は、教皇に対してスペイン国内での独自の異端審問機関の設置の許可を願った。これは教皇のコントロールを離れた独自の異端審問であり、異端審問が政治的に利用されることの危険性を察知した教皇は許可をためらったが、フェルナンド王は政治的恫喝によってこの許可をとりつけることに成功した。結果としてスペイン異端審問は多くの処刑者を生んだことで、異端審問の負のイメージを決定付け、キリスト教の歴史に暗い影を落とすことになった。

ローマの異端審問
1542年、時の法王パウルス3世によってローマに設けられた異端審問所は、従来のような教皇によって少数の異端審問官が任命されるシステムを廃し、神学者や学識の誉れ高い枢機卿たちからなる委員会が、特定の教説や著作に対して異端性がないかどうかを審議すると同時に、各国で行われる異端審問に問題がないよう監督することを目的としてつくられた。ローマの異端審問所は後に「検邪聖省」と改称され、教皇庁の一機関として機能した。検邪聖省は各国のよりすぐりの神学者、哲学者、教会法の専門家たちをアドバイザーとして抱え、彼らの意見に基づいて審議を行っていた。当初はジョルダーノ・ブルーノの断罪といったケースも扱っていた検邪聖省だったが、やがて個人の断罪よりも著作物を中心とした思想の審議が任務となっていき、それに伴って禁書目録の作成を行うようになった。発足以来、ローマの異端審問所である検邪聖省の決定のおよぶ範囲はイタリア国内に限られており、国外に対しては禁書目録の送付や決定事項の連絡以上の影響力を及ぼさなかった。検邪聖省の扱った事案でもっとも有名なものはなんといっても17世紀のガリレオ・ガリレイの著作に関する事案(いわゆるガリレオ裁判)であった。禁書目録は廃止されて久しいが、検邪聖省自体は教理省に改称して現在でも存続している。

その他
スペインにおける異端審問の廃止は1834年であったが、「異端審問」という言葉は現代においてネガティブなイメージをもった言葉としていき続けている。上にあげた以外のその他の異端審問において補足しておくと、16世紀、インドのゴアにはポルトガル政府によって設置された異端審問所があった。インドの伝統とキリスト教を融合させようとしたイエズス会員ノビリらの運動はこの異端審問所によって糾弾された。キリスト教原理主義の立場に立つアルベルト・リベラはナチス・ドイツによるホロコーストを異端審問の一形態として位置づけているが、このような独自のホロコースト観は当然、大方の歴史学者たちには受け入れられていない。また、裁判記録の調査では異端審問で死刑判決が下されたのは全体の2% - 12%である。

社会的な動き
異端審問に対して抵抗の動きもあった。例えば、1233年に、審問官フェリエがナルボンヌの新町の住民を異端者呼ばわりしたため、激怒した住民がドミニコ会の僧院に押しかけ、玄関の一部を破壊している[7]。また、1242年にアヴィニョネで、審問官以下12名が惨殺される事件が起きた[8]。さらに1302年には、アルビで司教ベルナール・ド・カスタネが締め出された事件がある。司教カスタネは1299年にアルビ司教区で35人の住民を捕縛し、その内19人に対し終身刑を宣告し、足を鎖で繋ぎ、不衛生な獄舎へと送ったのである。こうしたカスタネの熱心な異端狩りに対し、3年後にアルビの住民はカスタネに対し抗議行動を行うに至った。1302年2月に、トゥールーズから帰還したカスタネを市内に入れないようにする為に、群集が市門に殺到し、罵声を浴びせたという。また同年末には、ドミニコ会士が説教をしようとすると、罵声が浴びせられ、石を投げつけられたと。その結果、会士はほとんど僧院から出られない状態に陥ってしまった。また、カルカッソンヌもまた、アルビと同じぐらい「反異端審問」の動きが強く、そこで僧院の院長を勤めたギーは、その大変さを自身の本に書いている。また、1295年にはカルカッソンヌの住民が蜂起し、審問官に石を投げつけたため、ドミニコ会士らは市外に脱出している。これらは、異端審問の制度の是正を促したかに見えたが、最終的には失敗し、反異端審問の活動に加わった者達は審問官による執拗な報復を受けた。[9]。

脚注
1
渡邊昌美「オルレアンの火刑台」、「異端の時代の開幕」『異端審問』講談社〈講談社現代新書〉、1996年7月20日第1刷発行、32-35頁。

2
渡邊昌美「異端の時代の開幕」『異端審問』講談社〈講談社現代新書〉、1996年7月20日第1刷発行、34-36頁。

3
渡邊昌美「異端審問とは何か」『異端審問』講談社〈講談社現代新書〉、1996年7月20日第1刷発行、22頁。

4
渡邊昌美「異端審問の教科書」『異端審問』講談社〈講談社現代新書〉、1996年7月20日第1刷発行、23-27頁。

5
渡邊昌美「手引書の数々」『異端審問』講談社〈講談社現代新書〉、1996年7月20日第1刷発行、138-139頁。

6
渡邊昌美「ギーの異端審問」『異端審問』講談社〈講談社現代新書〉、1996年7月20日第1刷発行、158-159頁。

7
渡邊昌美「ナルボンヌの騒動」『異端審問』講談社〈講談社現代新書〉、1996年7月20日第1刷発行、124頁。

8
渡邊昌美「アヴィニョネの惨劇」『異端審問』講談社〈講談社現代新書〉、1996年7月20日第1刷発行、116-119頁。

9
渡邊昌美「反ドミニカンの嵐」、「使徒といえども」『異端審問』講談社〈講談社現代新書〉、1996年7月20日第1刷発行、148-153頁。

参考文献
渡邊昌美『異端審問』講談社〈講談社現代新書〉、1996年7月20日第1刷発行。”


 うちの子たちが小学生の頃に使っていた、ジュニア用の歴史図鑑をとっておいてよかった。最近出た図鑑もチェックしておきたい。紘平の歴史の暗記度・理解度をどの程度のものにするか?

“ 紘平は、異端審問官に答えて、いいました。
「ぼくたちは、異教の地から来ました」
――少なくとも、キリスト教が国教というわけではないからね。

 異端審問官は眉根をぐっと寄せて、うっすらと微笑をうかべました。
「異教の地だと? マニ教の地から来たというのだな?」

 紘平はマニ教ときいて、とまどいました。マ二の秘法は、紘平が熱中したことのあるゲームの必須アイテムだったからでした。
「えっと、そうですね。ぼくたちの国にはいろいろな宗教が存在しているんです。もちろん、あなたがたのキリスト教だってありますよ。キリスト教を国教と定めるまえのローマ帝国を想像していただくと、よいかもしれません。一つの宗教を信じている人もいますが、正月に神社へ行って願いごとをし、盆に寺の坊さんをよび、クリスマスにサンタクロースのプレゼントを待つ人がたくさんいるんです。信じられるのは、飼っている動物だけとか、お金だけとかって人もいます」

 もっとも、ザビエルによって日本にキリスト教が伝わったのは1549年、室町時代のことでした。13世紀のこの頃は、日本では鎌倉時代にあたります。仏教の革新運動が進んだ時代でした。元寇の勝利によって、日本は神の国であるという『神国思想』が生まれた時代でもありました。

 異端審問官の頭は、紘平のわけのわからない回答に、恐慌を来たしていました。
「おまえは、何者なのだ? そして、どこから、何の目的で来たのか? わかりやすくのべよ」

 アジア、といえば、それだけでも、いくらかは通じたでしょうが、紘平は自分の国と身分を表現する、古風でわかりやすい言葉を記憶にもとめて、聖徳太子の飛鳥時代にまで、さかのぼっていました。――そうだ、小野妹子だ。
「ぼくたちは、アジアの日出づる処から来た、親善使節の一行です。よきにおはからいのほどを。異端審問官さま」

 紘平はうまく答えたつもりでしたが、平静をとりもどしていた異端審問官は、眉根を寄せただけでした。

 異端審問官の頭のなかは、聖徳太子とも、また紘平とも、ちがっていたので、アジアの日の出るところから来た、という紘平の言葉は、異端審問官には特殊な印象をあたえました。

 中世ヨーロッパでえがかれた『TO図』とよばれる世界地図では、大陸は3つにわけられていました。上半分がアジア、左下がヨーロッパ、右下がアフリカでした。世界の中心はエルサレムで、上のはしっこにはエデンの園があるとされていたのです。

 異端審問官は、きびしい口調でいいました。
「その親善使節の一行が、ローマ教皇のもとへはおもむかず、魔物がすみ、魔女のうたがいのかかる人物がとらわれている洞窟に、何の用があったというのか? その目的をのべよ」”


 ここで、サブタイトルを整理しておこう。収録済みの章は以下。

1章 おとうさんの部屋で
2章 くっついたピアノ協奏曲
3章 どうすればいいのか、わからない
4章 青い目のネコ 
5章 あしたは、しあさって

サブタイトルは作品を進めるごとに考えていきたいと思う。書き上がった時点で、各章の枚数の調整が必要となる。サブタイトルの変更も必要になってくるかもしれない。

ブランクが長かったが、今朝、何とか作品の世界に入れた。入れなかった間の惨めだったこと! 今朝下書きした分は、

6章 冒険へのいざない

に収めたい。そして、

7章 冒険へ

で、序破急の構成のうち、序が終了する。パソコンで清書して、原稿用紙に換算してみなければわからないが、予定枚数の80枚を超えそうな気配。まあいい、別に枚数制限を設けているわけではないから。あとで削ったり、つけ足したりといったことも出て来るだろう。

ブログに一気に収録したこれまでの分には№1を振った〔わたしの外部サイト『マダムNの児童文学作品』では連載1―45〕。これ以後の更新分には、その都度、番号を振るようにしよう。

一気に読めるように、ウェブぺージを使ってサイドバーにリンクを設け、更新ごとにつけ足していくのもいい。ホームぺージ『バルザックの女弟子になりたい!』には、完成した段階で収録したい。

まだ着工の段階だから、先は長い。破の長丁場(予定枚数170枚)を如何に乗り切るかだ。

ところで、書店では娯楽系児童文学作品が溢れていて、純文系は縮こまっているように見える。図書館にある小学館と講談社の堂々たる世界の児童文学全集(純文系児童文学作品の宝庫だ)は、ナンとわたしが子供の頃に出たものだ。

さすがに図書館は大事にしてくれている。わたしは子供たちに同じようなものを買ってやりたいと思ったが、それより小ぶりのものがちまちま出ているだけで、あれほどのものは見つからなかった。

あれが出た当時、日本の大出版社はもっと地味な印象だった。ボロ儲けしていたとも思えない。儲け優先ではなく、日本の子供たちのためを思って出されたものではなかったか。

あれからも、世界中で、純文系の重要な作家が沢山誕生したはずだか、この時代、それらをも収めた豪華版の世界の児童文学全集が出たってちっともおかしくないはずなのに。中小には無理でも、大出版社にはその力があるはずだ。それだけのものを出せる編集者が育っていないのではないかと疑ってしまう。

娯楽系、純文系――この二つの違いに区別のついていない編集者、教育関係者すら、いるのではないかという気がしてしまう。大人向きの文学については大雑把に考察した[1]が、子供向きのものでも同じだ。

『ハリーポッター』は娯楽系児童文学作品だから、あんなにヒットした。娯楽系、純文系のどちらがいい、悪いではない。ただ違うのだ。娯楽系がお菓子なら、純文系はごはんなのだ。お菓子ばかりを食べさせられた子供がどうなるかは、栄養士に訊かなくてもわかることではないか。

そのうち児童文学論を書きたい[2]が、今はゆとりがない。



[1]
2010.6.17
基幹ブログ「マダムNの覚書」

文学界の風穴となるだろうか?

サイト「作品発表広場」に作家登録したことに、迷いがないわけではない。

2010年1月20日に公開を開始したばかりの新しいサイトです。
現在はベータ版としてのテスト運営中です。
真剣にものづくりをされている方の作品を通じて、さまざまな出会いやつながりを作っていくサイトです。

こうした説明を読んだあとで、サイトに展示した作品が売れると30%、仕事の依頼があると30%支払う仕組みになっていることを知ったら、何だ、商売か、仲介業者か、と一抹の胡散臭さを感じないわけではなかった。でも、何となく新しい形態に思われ、好奇心もそそられた。

わたしはカテゴリ「文芸の作品」で登録しているので、文芸に限って話を進めたい。

作品発表広場に作家登録する以前から、わたしは文芸作品の展示、及び仕事の依頼を希望する旨の意思表示を自身のサイトで行ってきた。
しかし、素人の個人的な、趣味的なサイトでこのようなアピールを行ったところで、どんな依頼者も現われはしないだろうことは予感された。時々好意的なメールをいただくことはあるけれど、それが仕事に結びつくとか、スポンサーが現れるということは夢物語のようなことだ。
それなりにサイトの訪問者はあるにしても、そのほとんどがわたしの記事から何らかの情報を引き出すために訪れるだけ。わたしもそんな利用の仕方をしているのだから、お互いさまといえる。

それに、胡散臭さという点でいえば、大手出版社の牛耳る文学界は、本当に胡散臭い。

純文系の作家として世に出ようと思えば、悲劇だ。
伝手があれば別かもしれないが、大手出版社の新人賞をゲットするしかない仕組みになっている。運よく賞がとれたところで、飼い殺されている作家(であるような、ないような人々)がどれだけいることか、想像できないくらいなのだ。

わたしが某賞で最終候補になったときに賞をとった男性は、作家になれるつもりで会社をやめたと聞いた。奥さんが働いていたからそれができたのだろうが、賞の発表誌がわが国を代表する文芸雑誌だったのだから、その気になるのも無理はなかった。
彼の作品は、エッセーがその雑誌に一度だけ載った。数年後に、わたしが別の作品で最終候補になったとき、彼が来ていた。
依然として、せっせと担当編集者に作品を提出していたようだった。その後、彼がどうなったのかは知らない。そこと接点を持ち、飼い殺されている人々の話は、何度となく聴いた。

わたしはアレクサンドリア木星王さんに手紙で打ち明けたように、純文学狙いに限界を感じ、昔から好きだった児童文学に方向を変えた。
イギリスにあるような良質の児童文学作品が日本にはないと思ったことも理由の一つだった。

特に近年、小ぢんまりとまとまったものか、エンター系のものばかりが目につく。以前は、素人を育ててくれる児童書専門の出版社が複数あったが、代表的だったところは素人の作品の持ち込みを受付なくなってしまった。

過去記事を参照していただければわかると思うが、児童書は厳しい――だが大手出版社の怠慢が目立つ――状況にあることは間違いない。
もう自費出版しかないと思っていたところへ、ひょっこり舞い込んだ前掲の「作品発表広場」からのメール……。

純文学の話に戻ると、作風は濃いが、内容は薄くて、じっくりと読みたいという気を起こさせない作家の純文学作品が文芸雑誌を独占しており、評論といえば護教的とでもいいたいようなシロモノばかり。
もっとずっとましなものか、少なくとももう少しはましなものが書けるはずの人材が埋もれている。日々埋もれてゆく。純文学の修練を積み、実力を培った人材の多くが棄てられて行くこの現状は、惜しい。

純文学が社会の価値観に与える影響は大きいが、潜在的だから、この事態が見過ごされてきている。わが国の純文学は自然にこうなったのだろうか? 勿論、そんなはずはないのだ。

わたしのパソコン歴は6年くらいのもので、ネットをし始めた頃に、たまたま平野啓一郎の『日蝕』について検索した。

一頃話題になった、佐藤亜紀の『鏡の影』との関係が気になったからだったと思う。
その頃、交際のあった女性編集者はわたしにそのことについて、佐藤亜紀の嫉妬だろうといった。

事の真偽はともかく、神秘主義に親しんできたわたしの『日蝕』に対する感想としては、呆れたシロモノだというしかない。神秘主義的な事柄を玩具にしているように映る(いずれきちんと感想を書いてみたいと思っている)。 
悪趣味で幼稚、どこといってとりえのなさそうな、純文系作品ともエンター系作品ともいえそうにないこの作品が天才的と評されて芥川賞を受賞した。

純文系作品ともエンター系作品ともいえそうにない――といったのは、昔の作家の例になるが、泉鏡花、吉屋信子の少女小説のように、どちらの資格もあるという意味でいったのではない。どちらの資格もないといっているのだ。
佐藤亜紀の作品はエンター系だが、まぎれもない文学作品であり、作風はスタイリッシュだ。

ところで、平野啓一郎のデビューの仕方を、ウィキペディアから以下に抜粋。

平野啓一郎. (2010, 5月 7). Wikipedia, . Retrieved 19:09, 6月 16, 2010 from https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B9%B3%E9%87%8E%E5%95%93%E4%B8%80%E9%83%8E&oldid=31979233.

デビューの経緯
啓一郎の特色の一つとしてその「投稿によるデビュー」が挙げられることがある。啓一郎がデビューした文芸誌『新潮』の巻末には、現在まで毎巻欠かさずに「御投稿作品は、全て「新潮新人賞」応募原稿として受付けます。」との記述がある。啓一郎自身がインタビューで答えた情報によれば、デビュー経緯は以下の如くである。

1997年、21歳の啓一郎は1年(資料収集半年、執筆半年)を費やしデビュー作となる『日蝕』を書く。投稿先を『新潮』に決める。年末、『新潮』編集部に自分の思いを綴った16枚の手紙を送る。手紙を読んだ編集部からは「とりあえず作品を見せて欲しい」と回答。編集者の出張先が京都であったこともあり、会って食事をする。1998年、『新潮』8月号に『日蝕』が一挙掲載される。「三島由紀夫の再来とでも言うべき神童」などという宣伝と共にデビューする。翌年芥川賞受賞。”

含みのあるようなエピソードだが、出版社も商売だろうから、作品がよいものであれば、そんなことはどうだっていいと当時わたしは思っていた(よいものとは思えなかったから、そのことが問題だと思った)。
だから、ネットで平野のデビューには瀬戸内寂聴が関与しているという記事を閲覧したときも、ちょっと意外に感じただけだった。

平林たい子と円地文子が好きなので、そのついでにという感じで、瀬戸内寂聴の作品を読んだ。岡本かの子も好きなので『かの子繚乱』を読んだ。よく取材がなされており、労作と思われた。
しかし読後、わたしは一抹の疑問を覚えた。『かの子繚乱』の天衣無縫というよりは幼稚な、それでいて色欲に衝かれたような生臭いかの子像が、ぴんとこなかった。

かの子の作風は高雅で知的であり、性をテーマとしていても、生臭さがない。
一方、お坊さんなのに、瀬戸内寂聴の作品はどれもこれも生臭いとわたしには感じられた。これまでにわたしの知るどんな作家のものよりも、生臭い。

一般的には、瀬戸内寂聴は、文学界と仏教界の権威を帯びた文化の顧問的イメージ、おおらかさのシンボル、といったものではないだろうか。 
現に昨日――6月16日付――の朝日新聞朝刊の文化欄にも、88歳になった寂聴が慎ましやかな表情で出ていた。以下は記事からの抜粋。

携帯電話にはハート形のストラップも付け、若い作家との交流もある。「芸術は新しい世界をひらいていかないとダメです。こつを覚えれば小説は書けますが、それではつまらない。私もまだ書いていない、新しいものを書き続けていきたいと思っています」

新しい世界とは何だろう? この生臭いお坊さんを悦ばせる小説とは、どんなものなのか? 
わたしは彼女が影の影響力を発散し続ける限り、わが国の純文学に新しい世界は拓けないだろうと思う。

生臭くて内容に乏しい、変な技巧を凝らした作品でないと、賞がとれない純文学界の雰囲気は、一体誰がもたらしたものなのか?
若い作家と交流があるということは、その作家たちが彼女の後押しでデビューしたということを意味するのではないだろうか。もしそうだとすれば、彼女の影響下でデビューの機会を奪われたその他大勢の作家の卵がいるということを意味する。

わたしがそんな疑問を持ち出したのは、半年ほど前に、美容院で『婦人画報 1月号』(アシェット婦人画報社、2009年12月1日発売)の《寂聴先生、米寿のおしゃれ説法》を読んだときだった。
寂聴のブランド趣味を披露した特集……。カルティエ、ティファニーの腕時計。シャネルのバッグは
「清水の舞台」的に高かったそうだ。ロエベ、エルメスのバッグ。以下は、愛用品につけられた説明。

①数奇屋袋はブランドバッグと同様に大好きで、粋な意匠のものが好み。ちょっとした散歩などに持ち歩く。
②アンティークの籠バッグ。レザーバッグは耐久性に優れるが、和のやさしさも捨てがたいという。
③寂聴先生のお酒好きは有名で、猪口や片口のプレゼントも増えた。艶やかなガラス製は金沢のもの。
④時間ができると、愛用のピンクの携帯電話で自らのケータイ小説をのぞく。PV数が増えるのが楽しい。
⑤携帯電話に映えるキラキラストラップは、平野啓一郎夫人でモデルの春香さんからの贈り物。
⑥「平野啓一郎さんはプレゼント魔」と嬉しそうに話す寂聴先生。
⑦驚くなかれ、尼寺「寂庵」には秘密のバー「パープル」がある。仲良しの編集者たちと過ごす部屋。
⑧バー「パープル」のカクテルは、すべて紫色。祇園の芸妓さんがレシピをたくさん考案してくれた。

尼寺にバーがある? ステーキとお酒とブランド品が好きな僧侶。わたしは、めまいを起こしそうになった。
これではもはや、瀬戸内寂聴は、坊主のコスプレをした贅沢なマダ~ムにすぎない。プレゼントが多いようだが、それは彼女が僧侶兼作家という立場を利用した、巧妙な仲介業者でもあるということを意味しているのではないだろうか。

宗教の本質は神秘主義である。神秘主義が禁酒、禁煙、菜食を勧めるのには、秘教科学的な理由があるからで、その一つは、肉体より精妙な体にダメージを与える可能性があるからだ。〔以下を参照されたい〕
H・P・ブラブゥツキー著『実践的オカルティズム』(田中恵美子、ジェフ・クラーク訳、竜王文庫、1995年)の用語解説より、その七本質を紹介しておく。

神智学の教えによると、人間を含めて宇宙のあらゆる生命、また宇宙そのものも〈七本質〉という七つの要素からなっている。人間の七本質は、(1)アストラル体(2)プラーナ(3)カーマ(4)低級マナス(5)高級マナス(6)ブッディ(7)オーリック・エッグ

アストラル体はサンスクリット語でいうリンガ・シャリーラで、肉体は本質というよりは媒体であり、アストラル体の濃密な面にすぎないといわれる。カーマ、マナス、ブッディはサンスクリット語で、それぞれ、動物魂、心、霊的魂の意。ブッディは高級自我ともいわれ、人間の輪廻する本質を指す。ブッディは全く非物質な本質で、サンスクリット語でマハットと呼ばれる神聖な観念構成(普遍的知性魂)の媒体といわれる。
ブッディはマナスと結びつかなければ、人間の本質として働くことができない。マナスはブッディと合一すると神聖な意識となる。高級マナスはブッディにつながっており、低級マナスは動物魂即ち欲望につながっている。低級マナスには、意志などの高級マナスのあらゆる属性が与えられておりながら、カーマに惹かれる下向きのエネルギーも持っているので、人間の課題は、低級マナスの下向きになりやすいエネルギーを上向きの清浄なエネルギーに置き換えることだといえる。

飲酒や肉食は、カーマに惹かれる下向きのエネルギーを強めるといわれる。他にも、いろいろな理由から、神秘主義は清浄な生活を勧めている。
一般人には、一足飛びにそのような清浄な生活を送るのは難しいが、誓いを立てた僧侶はその難事業にチャレンジし、世の模範になろうとするわけである。彼女は僧侶とはいえないが、前掲の雑誌から以下に抜粋する彼女の意味をなさない言葉からすると、良識ある大人ともいえない。

「女子高生が援助交際なんかしちゃってブランドバッグを手に入れて喜んでいる一方で、ブランドものなんて虚飾!と言わんばかりに頭から否定してしまう大人がいる。いったい日本はどうなってしまったんでしょうね。戦時中の“贅沢は敵だ”じゃあるまいし、モノのもつ価値をきちんと理解できる大人が、大切に慈しんで使えば、それでいいではありませんか。ねぇ」

わが国を覆う物欲と性欲。この風潮に彼女が一役買っていないとは思えない。

世に出る手段の見い出せないわたしのような作家の卵にとって、サイト「作品発表広場」は変則的な、ちょっと面白い仲介業者に映る。ただし、まだ正体の掴めないところがあって、お試しで作家登録している――といったところ。

わたしは文学革命を夢見ていた。
しかし、価値観も作風も多様化した今のわが国で、物書きが足並みを揃えることは無理だとも感じていた。

価格破壊という言葉がある。
デジタル大辞泉の解説によると、価格破壊とは「ディスカウントショップの躍進、安い輸入品の増大などによって、それまでのメーカー主導型の価格体系が崩れ、消費財の価格が下落すること」をいう。
物書きは決して安売りしてはならないが、「作品発表広場」のようなサイトに優秀な作家がどんどん登録して繁盛すれば、大手出版社主導型の純文学界の価値体系を崩すことが可能かもしれない。


[2]
2011.3.7
基幹ブログ「マダムNの覚書」

気になる今後の児童文学界

昨日の話。「講談社の社長が交代するみたいだね。新聞に載っているよ」と勤め先の書店から帰宅した娘。

へえーと思い、朝日新聞朝刊を見ると、「4月に7代目社長になる 講談社副社長 野間省伸さん(42)」という見出しが目に入った。

お坊ちゃまの典型例みたいなご容貌にハイ・センスなムードが漂う写真。経営戦略に終始した内容。「慶應大学卒業した1991年、旧三菱銀行に入行。99年に退職し、講談社入社。取締役、常務を経て2004年から現職。日本電子書籍出版社協会の代表理事も務めている」とあった。

講談社といえば、すぐに記事にするつもりで日付を残さずに切り抜いた朝日新聞朝刊の記事があったのを思い出した。「児童文庫 活況」という見出しに思わず微笑んで読み始め、驚きと共に読み終わった記事だった。最近、出版界には戦慄させられることばかりだ。以下は記事のプロローグ。

本が売れない時代、小中学生向けの「児童文庫」が堅調だ。世界の名作をそろえた岩波少年文庫だけではない。講談社青い鳥文庫が現代の子ども向けに新たなベストセラーを育てたのを機に、近年、児童文庫を創刊する出版社が相次いでいる。好調を支えるのは小学生。学校での「朝読」が子どもたちを読書好きにしている。(中村真理子)

本文では、「ここ数年の創刊ラッシュに火を付けたのは講談社青い鳥文庫のヒットだ。世界の名作を紹介してきた岩波少年文庫に対し、現代の子どもにあった物語を作ることを目指した」とあり、「青い鳥文庫も創刊当初は名作が中心だった」そうだが、1994年に始まった『名探偵夢水清志郎事件ノート』のヒットから流れが変わったらしい。記事の内容からすると、売り上げを伸ばすために純文学系からエンター系へと出版傾向を変えたということのようだ。

しかし、わたしが驚いたのは以下に抜粋する箇所だった。

青い鳥文庫にはファンクラブがあり、中には年に400冊以上読む子もいる。ファンクラブの子どもから半年ごとに100人を「ジュニア編集者」に選び、本になる前のゲラを読んでもらう。これで今の子にわかりにくい表現を変えたり、作者が書き直したりする。時にはラストシーンが変わることもあるそうだ。
 児童文学評論家の赤木かん子さんは「今の小学生にとって、携帯電話が登場しない時代の物語はもう古典」と言う。「現代の言葉で新訳したり、表紙をはやりのイラストにしたりするのは大事。あんたたちの本だよ、という目印なのですから」

ジュニア編集者にラストシーンを書き変えさせられる作者の気持ちというのは、どんなものなのだろう? プロであれアマチュアであれ、物書きであれば、作品のラストシーンがどれほど大事なものかがわかっているはずだ。こんな状況では、作者としての矜持は踏み躙られている。

児童文学作品を書く上で、子供の感じかたは参考になるものだろうが、大人の感じかたが十人十色であるなら、子供もまたそうなのだ。作者には、自身の裁量で参考にする子供を選ぶ権利があるはずであり、また参考にするやりかたもこんなものであっていいはずがない。

いっそ、子供に書かせればいいではないか。

編集も子供に。小学生のときに、学級新聞を作ったことを思い出す。記者になって市役所に取材に行き、記事を書いた。あれは楽しかったなあ。中学生のときに、文芸クラブで書いた童話を顧問の先生が活字にしてくれたのは、とても嬉しかった。そう、子供にやらせればいい。校正、割付……一から指導してやって。推薦の言葉も子供に書かせよう。本になったら、営業も担当させてみればいい。そして、自分たちが出した本が社会にどのような影響を及ぼしているかまで、調査、考察させよう。

子供には、大人が考えているよりずっと多くのことができるのだ。児童文学の名作は、そのことを教えてくれる。

尤も、青い鳥文庫のやりかたは、嗜好品で子供を釣ろうとするのと変わりない。酒と煙草のことをよく知っている大人を選ぶようなやりかたで、子供たちの嗜好品に詳しい子供を選び、その好みにそった本を出しているわけだ。

児童にとっての読書は、血となり肉となるものだ。情操を育み、人格形成に作用し、幸福の質を決定する。そして、国民の読書傾向は、社会の質を決定するといっても過言ではない。

わたしは昔講談社から出た児童文学全集を貴重に思い、リストアップしてみた。

2010年8月14日 (土)
「世界の名作図書館」全52巻(講談社、1966-70) - 収録作品一覧
https://elder.tea-nifty.com/blog/2010/08/521966-70-fe50.html ”

数ヶ月に1人くらいアクセスしてくれるかしらと期待していたところ、毎日のようにアクセスがある。また、「マダムN 推薦図書」といった検索ワードを打ち込んで見えるかたも少なくない(書きかけで申し訳ありません)。

良書を、また良書選びの指標を求めている人々は案外多いのではないかと思う。

記事で一言している児童文学評論家は、自分のいっていることがわかっているのだろうか? 古典は価値がないとしかとれないようなニュアンスだが、エジプトの洞窟に隠された壷の中で二世紀から眠っていた古文書の内容に感涙するわたしには全くもって意味不明な言葉だ。児童文学作品の目利きであるはずの評論家が、本を大根かバナナみたいに賞味期限のある生鮮食品扱いしているのには驚く。文学作品のよさを知らない可哀想な人だとすら思える。

いわさきちひろの挿絵を初めて見たのは幼稚園でだった。そのときの情景も、絵自体も、昨日のことのように鮮明に覚えている。児童文学作品の挿絵は美術品を鑑賞することへの架け橋ともなることを、記事の児童文学評論家は知らないのだろうか。本来なら、読者ではなく、本の内容が挿絵を選ぶはずだ。

ところで、わたしが中学一年生のとき、母がジュニア版の文学全集を注文したといった。わたしはその頃、図書室で見つけた偕成社の「少女ロマン・ブックス 全16巻」に夢中になっていた。

  1. 赤毛のアン(モンゴメリー)
  2. アンの青春(モンゴメリー)
  3. アンの愛情(モンゴメリー)
  4. アンの友達(モンゴメリー)
  5. アンの夢の家(モンゴメリー)
  6. 果樹園のセレナーデ(モンゴメリー)
  7. スウ姉さん(E=ポーター)
  8. そばかすの青春(E=ポーター)
  9. リンバロストの乙女(E=ポーター)
  10. ジェニーの肖像(R=ネーサン)
  11. 少女レベッカ(K=ウィギン)
  12. レベッカの青春(K=ウィギン)
  13. 金髪のグーリヤ(イリーナ)
  14. すてきな夏休み(オギルピー)
  15. 羽ばたくころ(ベルナージュ)
  16. アンネは美しく(B=ブラッド)

わたしは母がそれを注文したのだと早とちりして大喜びしたのだったが、届いたのは、岩崎書店の「ジュニア版 世界の文学(全三十五巻)」だった。わたしは悲しくて、悔しくて、「そんなもの、いらない!」と地団太踏み、泣いた。勿論、母からは叱られた。なぜ、あのとき、あんなに泣いたのか、わからない。「少女ロマン・ブックス」に心の拠り所を求めていたのかもしれない。

たぶんお小遣いで買ったのだろう。『アンネは美しく』だけが今も手元にあり、他は図書室から借りて読んだ。他の出版社から出ていた同系統の全集も読んだ。それらの本は、今読んでも美しい内容だと思うが、あの時点では母が岩崎書店の「ジュニア版 世界の文学」を買ってくれて正解だった。

お金があったとしても、自分では絶対に買いそうになかった全集だと思うから。わたしはしばらく拗ねていた。とっつきにくそう、暗そう、大人っぽすぎる、むさくるしそうな人がいっぱい出てくる感じ……などと思いながら、そのうち、シュトルムの『みずうみ』とかフェルスターの『アルト・ハイデルベルク』といった近寄りやすそうなものから手を出すようになり、仕舞いには、寝る間も惜しんで読むようになっていた。

読み終えたとき、世界が一変していた。全集に収録された作品にはどれも力強さがあった。深さがあった。世界は広大だと感じさせた。

全集を読んでいた間というもの、わたしには膀胱神経症という癒えない悩みがあり、母は腎臓病で1年間もの入院生活を送るなど、面白くない毎日が続いたが、全集にはつらい境遇の人が沢山出てきて、それなのに彼らは何か崇高な、人間的な輝きを帯びて感じられた。作者の内的な光が彼らにそのような輝きを与えているということには気づかなかったが、とにかく、読んでわたしは彼らとの連帯感を味わったのだ。嫌なことの多かったはずのあの日々が幸福な日々として甦ってくる。

わたしにはあの頃、「少女ロマン・ブックス」のような思春期の心の襞を美しく描いたシリーズも必要だったと思う。そうした清純な、夢のあるシリーズも、今はあまり出ていない気がする。ポプラ社の「百年文庫」『18 森』にモンゴメリーが入っているのは嬉しい。ジャルジュ・サンド、インドの大詩人タゴールとの組み合わせという豪華さだ。

以下は「ジュニア版 世界の文学(全三十五)」(編集/白木茂・山本和夫、岩崎書店、昭和42~45年)。

  1. ジェーン・エア(C・ブロンテ)
  2. レ・ミゼラブル(ユーゴー)
  3. 猟人日記(ツルゲーネフ)
  4. 赤い子馬(スタインベック)
  5. ジキル博士とハイド氏(スティーブンソン)
  6. 女の一生(モーパッサン)
  7. 月と6ペンス(モーム)
  8. 三国志(羅貫中)
  9. 罪と罰(ドストエフスキイ)
  10. シラノ・ド・ベルジュラック(ロスタン)
  11. 白鯨(メルビル)
  12. 阿Q正伝(魯迅)
  13. 初恋(バルザック)
  14. 即興詩人(アンデルセン)
  15. 血と砂(イバニエス)
  16. 静かなドン(上)(ショーロフ)
  17. 静かなドン(下)(ショーロフ)
  18. ジャン・クリストフ(上)(ロラン)
  19. ジャン・クリストフ(下)(ロラン)
  20. 若きウェルテルの悩み(ゲーテ)
  21. 春の嵐(ヘッセ)
  22. 椿姫(デュマ)
  23. 母(ゴーリキイ)
  24. 息子と恋人(ローレンス)
  25. アルト・ハイデルベルク(フェルスター)
  26. アッシャー家の没落(ポー)
  27. 武器よさらば(ヘミングウェイ)
  28. せまき門(ジイド)
  29. タラス・ブーリバ(ゴーゴリ)
  30. はじめての舞踏会(マンスフィールド)
  31. 緑の館(ハドソン)
  32. 戦争と平和(上)(トルストイ)
  33. 戦争と平和(下)(トルストイ)
  34. みずうみ(シュトルム)
  35. 世界名詩集(山本和夫編)

 秋芳洞に取材に出かけ、ヨーロッパ中世について調べているうちに、プロット①ががらりと変わってしまった。で、ここで修正しておきたい。物語を進めるうちに何度でも修正の必要が生じるだろうが、まめに記録しておこう。

プロットⅡ

序……予定枚数80枚

 子供たちが冒険に入るまで。現在時点で78枚。子供たちが冒険に何を持っていくかだが、あと2枚あれば書けそうだ。

破……予定枚数170枚

洞内へ……10枚
 紘平が瞳の思いつきで、アルケミー株式会社製品のクッツケールを用い、倉庫の先に鍾乳洞をくっつける。白いネコに導かれ、子供たちは鍾乳洞に入る。天井近くの横穴から入った子供たちに明るく光っている岩が見える(竜のオーラだ)。足場の悪い地点での子供たちの助け合い。洞内の光景。白いネコを追う子供たち。 

竜の来歴……30枚
 子供たちと牝の竜との出合い。恐竜時代、ここで生きるまでの経緯、竜を可愛がっていた錬金術師のことを竜の記憶として描く。 

錬金術師の娘の来歴と街の歴史……60枚
 白ネコは錬金術の娘の飼いネコだった。子供たちと錬金術師の娘マリーの出会い。囚われているマリーの来歴。錬金術師の娘を見張る番人たちの四方山話として、モンセギュールの戦いが回想され、街の歴史が明らかになる。

翔太の喘息の発作……10枚
 錬金術師の娘による治療。

魔女裁判……60枚
 番人につかまる子供たち。子供たちはマリーの一味とされる。
 異端審問官との対決。翔太のピアノの泣き声は、子供たちとマリーが勝利するのに役立つ。

急……予定枚数50枚

 鍾乳洞からの脱出。竜は飛翔する。マリーを乗せて。彼女をもっと安全な地に連れて行くために、聖獣となった輝かしい竜はエジプト南部に位置するナイル河畔の町ナグ・ハマディ[1]の方角へ向けて飛び立つ。子供たちの帰還。元いた世界の混乱と紘平による収拾。図書館に出かけた紘平たち父子を通して後日談。

[1]
2011.6.14

 マリー・マドレーヌは『マリア福音書』の具象化で、『マリア福音書』はナグ・ハンディ文書には含まれて入ない。



接着剤の使用について

 説明書によれば、接着剤の使用は6回となっている。

①肉まんと紘平の口
②ピアノ協奏曲の音色と弟翔太の口
③今日としあさって

 紘平と瞳の話し合いでは、残る接着剤使用の内訳は次のようなものとなる。

④翔太のピアノの音色をした泣き声を、元の泣き声に戻すことに使うのに1回分。
⑤遊びの切っ掛けを作るのに1回分。

 具体的には、電器店の倉庫の中の迷路の先に巨大鍾乳洞をくっつける。

⑥遊びを締めくくるのに1回分。

 具体的には、壁を通り抜けて延びた鍾乳洞を消滅させるために、壁に開いた穴を接着剤で塞ぐ。つまり開いた壁の端と端をくっつけて、壁を元通りに再生することで、接着剤で創り出した別の世界を切り離す。

 しかし、現実では話し合い通りに物事は進まない。

 3人の冒険は無事に終るものの、鍾乳洞が入り口となっている中世風の世界は存在したままだし、翔太の泣き声も取り戻せていない。さらには、紘平が接着剤で消した2日間のために、元いた世界は混乱していた。これら全てを解決するために、接着剤は最低3回分は必要なのだが、残っているのは2回分だけだ。

 紘平と瞳は、接着剤以降の時間をなかったことにするために、これまでのことを紘平が夜見る夢の世界にくっつけることにする。これで1回分。残る1回分は、鍾乳洞に入り込んでいた中世風の世界にいたときに紘平が願った、東西がくっつけばという願いが時を経て、古文書の発見というかたちで叶うのだ(そのことがわかっているのは紘平の父で、紘平は知らないが、そのあたりの事情は、シリーズ第1作目のこの作品では語られない)。

 白ネコはカタリ派をシンボライズ。


 電器店の倉庫の先にくっついた鍾乳洞の天井近くの横穴から入ると、うっすらとした湿気が子供たちの体にまとわりつく。

 岩には所々に緑色の苔。洞内はあちこちにある穴から洩れてくる光がわずかにあるが、概ね闇であるはずだった。それが、かなり広範囲にわたってほの明るいのは、竜のオーラのためだった。

 子供たちは、それを光る岩と思う。

 竜はあまりにも長い間、苔だけを舐めて生きてきたため、今や半分はあの世の体で生きているのだった。竜は、自分でも気づかないまま聖獣になりかけていたのだ。

 洞内に囚われている錬金術師の娘の名は、マリー(Marie)。[後日⇒さらにマドレーヌに。]

 マリーは、『マリヤによる福音書』をシンボライズする娘。彼女はまさに、東西の思想を一つにするためのミッシング・リンク、失われた輪をシンボライズする。

 鍾乳洞に入り込んでいる中世ヨーロッパ風の世界は、異端カタリ派の最期の砦モンセギュールが陥落したのちの世界をモデルとする。

[ここに挿入=J・ギース,F・ギース『中世ヨーロッパ城の生活』(栗原泉訳、講談社学術文庫、2005年)に、モンセギュールの包囲戦で、カトリック教会・フランス王家の連合軍によっても使用された武器、投石機の記述がある。わたしのお話に、モンセギュールの戦いを回想的に――錬金術師の娘を見張る番人たちの四方山話として――挿入したいので、ここに投石機について解説された部分を抜粋しておくこと。]

 異端カタリ派の宝をめぐってはいろいろといわれている。

[ここに挿入=原田武『異端カタリ派と転生』(人文書院、1991年)より、198頁・200頁から宝について触れた部分を抜粋しておくこと。]

 わたしのこのお話『不思議な接着剤』では、その宝の中にミッシング・リンクがあったのだ。『マリヤによる福音書』のパピルス文書だ。

 ファンタジーの世界であるという特質を生かすために、鍾乳洞内に入り込んだ中世ヨーロッパ風の世界と子供たちとの間に、言葉の障害は設けまい。

 最終的に、竜は飛翔する。マリーを乗せて。彼女をもっと安全な地に連れて行くために、聖獣となった輝かしい竜はエジプト[1]を目指して飛び立ったのだった。

 お話のエンディングで、冒険が夢と化したのちの紘平、翔太が、別居中の父親と図書館へ出かける。

 工作で恐竜を作ったためか、恐竜好きとなった紘平は、ビジュアルCG版の恐竜図鑑を借りる。翔太は、竜の出て来る童話ルース・スタイルス・ガネット『エルマーのぼうけん』(渡辺茂男訳、福音館、1963年)を借りる。父親は『マリヤによる福音書』が収録された本を借りる。〔←直截的すぎる。〕

 アルケミー株式会社製品のクッツケールは、実に想念という領域で、東西をくっつけることに一役買ったわけだった。

 白いネコが洞内で子供たちを錬金術師の娘マリーのもとに導くのを忘れるな。白いネコは既に駐車場で、その後にカレンダーで子供たちを導いていた。このネコは、シリーズものとなる予定の続編でも出て来るだろう。


[1]
2011.6.13

 竜が目指す地を特定するには、『マリアによる福音書』がどこで発見されたかを知らねばならない。カレン・L・キング『マグダラのマリアによる福音書 イエスと最高の女性使徒』(山形孝夫・新免貢訳、河出書房新社、2006年)によると、成立年代が古代にさかのぼる『マリア福音書』の写本には3冊ある。3世紀初頭のギリシア語写本『オクシリンコス・パピルス3525(オクシ・パピ)』『ライランズ・パピルス463(ライ・パピ)』が二つと、5世紀のコプト語写本『ベルリン写本8502』が一つだ。

 キングによると、「『マリア福音書』の原本はもともとギリシア語で書かれていたが、現在入手できるその大半はコプト語訳に限られる。コプト語とはエジプト語の最後の段階で使用された言語で、現在もなおコプト教徒と呼ばれるエジプトのキリスト教徒によって典礼用語として使用されている。」「コプト語文字の使用はほとんどキリスト教徒たちのど独占どあったから、『マリア福音書』をコプト語に翻訳し、こ後世に残したのはエドプト人キリスト教徒であったことは間違いない。」

ベルリン写本
 ラインハルトが1896年にカイロの骨董品市場で購入。売買人は中エジプトのアクミーム出身で、ある農夫が農家の壁がん部分にそれを発見したそうだ。しかし、写本の数頁の欠落を除けば、すばらしい保存状態であることからみて、それはありえず、不法に入手されたことは間違いないという。幾世紀もの間、放置されていた場所がどこかはわかっていない。

ライランズ・パピルス463(ライ・パピ)
 イギリスのマンチェスターのライランズ図書館が1915年に入手し、1938年、C・H・ロバーツによって発表。『オクシリンコス・パピルス3525(オクシ・パピ)』同様、北エジプトのオクシリコスで発見された。

オクシリンコス・パピルス3525(オクシ・パピ)
 下エジプト(北エジプト)のナイル川沿いにある町オクシリンコスの発掘調査において発見、1983年、P・J・パースンズによって発表された。現在、オックスフォード大学付属アシュモール博物館所蔵。

 前掲書にキングは書いている。「古代では、禁書扱いしたい本を消却する必要はなかった(もっとも、こういうことは時たま行われたが)。再筆写されなければ、無視されてそのまま姿を消したのである。われわれの知るかぎり、『マリア福音書』は5世紀以降は再び筆写されることはなかった。」


岩波書店から1997年から98年にかけて刊行されたグノーシス主義の文書――ナグ・ハマディ文書シリーズは全4冊、荒井献・大貫隆責任編集。内容構成は以下のようになっている。

Ⅰ救済神話 荒井献・大貫隆・小林稔訳

ヨハネのアポクリュフォン/アルコーンの本質/この世の起源について/プトレマイオスの教説/パシリデースの教説/パルクの書/解説

Ⅱ福音書 荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳

トマスによる福音書/フィリポによる福音書/マリヤによる福音書/エジプト人の福音書/真理の福音/三部の教え/解説

Ⅲ説教・書簡 荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳

魂の解明/闘技者トマスの書/イエスの知恵/雷・全きヌース/真正な教え/真理の証言/三体のプローテンノイア/救い主の対話/ヤコブのアポクリュフォン/復活に関する教え/エウグノストス/フィリポに送ったペトロの手紙/解説

Ⅳ黙示録 荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳

パウロの黙示録/ヤコブの黙示録1・2/アダムの黙示録/シェームの釈義/大いなるセツの第二の教え/ペトロの黙示録/セツの三つの柱/アロゲネース/解説

『マリアによる福音書』は『ナグ・ハマディ写本』には含まれていないが(『ベルリン写本』『オクシリンコス・パピルス』『ライランズ・パピルス』から見つかったものが知られている)、このナグ・ハマディシリーズに収録されている。

わたしは真っ先に『マリヤによる福音書』を読んだ。

冒頭で紹介されている『マリヤによる福音書』の内容構成は、以下。

(1-6は欠損)
 一 救い主の弟子たちへの教え(の続き)(7の1-9の5)

物質の消滅についての問いと答え(7の1-9)
世の罪についてのペトロの問いと答え(7の10-20)
人の死について(7の20-8の2)
パトスについて(8の2-11)
内にいる人の子について(8の11-21)
宣教命令(8の21-22)
法についての指示(8の22-9の4)
救い主の退去(9の5)

 二 その教えに対する反応(9の5-10の6)

彼が去った後の弟子たちの悲しみ(9の6-11)
マリヤの勧告(9の12-25)
ペトロのマリヤへの要請(10の1-6)

 三 マリヤが救い主から受けた啓示を語る(10の7-10、15の1-17の9)

幻について(10の7-10)
(11-14は欠損)
心魂の上昇の叙述(15の1-17の9)

  マリヤの話に対する反応(17の10-19の2)

アンドレアスの否定反応(17の10-15)
ペトロの同調(17の15-22)
マリヤの抗議(18の1-5)
レビの叱責と勧告(18の5-21)
弟子たちの出発(19の1-2)

一はイエスと弟子たちの対話篇。

二はイエスが去った後の場面。弟子たちは、イエスの宣教命令に対する困難を想像して動揺し、涙を流して嘆く。それに対して、マリヤ(このマリヤはマグダラのマリヤとされる)は彼らを力強く励ます。弟子たちはよい刺激を受けて、イエスの言葉について議論し始める。そこへペトロがいう。他の女性達に勝ってイエスに愛されたマリヤにだけ話されたイエスの言葉を聴きたいと。

三は、マリヤがペトロの頼みを受けて語る場面。わたしが神秘主義的観点から特に興味を惹かれた箇所を、以下に抜粋しておきたい。

 マリヤが答えた。彼女は「あなたがたに隠されていること、それを私はあなたがたに告げましょう」といった。そして彼女は彼らにこれらの言葉を話し始めた。「私は」と彼女は言った、「私は一つの幻の内に主を見ました。そして私は彼に言いました、「主よ、あなたを私は今日、一つの幻の内に見ました。」彼は答えて私に言われました。
「あなたは祝されたものだ、私を見ていても、動じないから。というのは叡智のあるその場所に宝があるのである」。
 私は彼に言いました、『主よ、幻を見る人がそれを見ているのは、心魂〈か〉霊(か、どちらを通して〉なのですか』。
 救い主は答えて言われました。「彼が見るのは、心魂を通してでもなければ、霊を通してでもなく、それら二つの真ん中に〔ある〕叡智、幻を見る〔もの〕はそ(の叡智)であり、そ(の叡智)こそが……

ところで、話題はここでパウロに飛ぶが、わたしは以下の2点において、パウロに疑問を抱いてきた

  1. イエスによる啓示の強引さ。
  2. パウロの言葉が発する女性蔑視の臭気。

神秘主義的観点からすれば、高級霊が①のように強引にこの世の人間に関わることはありえない。わたしが高級霊といったのは、パウロの体験に見るイエスの出現の仕方と、イエスが神的であるとするキリスト教の主張を折衷させて考えるとすれば、この存在しかありえないからだ。

それでも、高級霊の出現の仕方としては俗っぽすぎて、何なのだろうと思っていた。キリスト教の信者ではない率直さでいうと、わたしはパウロのいうイエスは、イエスではないと思う。パウロの体験は、トンデモ宗教の神に憑かれたトンデモ教祖の体験と区別がつかない。
それが『マリヤによる福音書』に描かれる内的体験としてのマリアが受けた啓示は、高級霊の関わりかたとして見ても、彼女の内なる神性との関わりかたとして見ても、おそらくその双方であろうが、キリスト教の信者ではないわたしには納得のいくものだ。
神秘主義的には高級霊は、その人に潜む神聖な意識(高級我)を通してしか関わることができないからなのだ。高級なものは高級なものにしか関わることができない。このことは、宇宙と人間の七本質に関する基礎知識がなくては理解に苦しむだろうと思う。

わたしには今それをここで詳しく解説するだけのゆとりがないが、再度、H・P・ブラヴァツキー著『実践的オカルティズム』(田中恵美子、ジェフ・クラーク訳、竜王文庫、1995年)の用語解説より、その七本質を紹介しておく。

神智学の教えによると、人間を含めて宇宙のあらゆる生命、また宇宙そのものも〈七本質〉という七つの要素からなっている。人間の七本質は、(1)アストラル体(2)プラーナ(3)カーマ(4)低級マナス(5)高級マナス(6)ブッディ(7)オーリック・エッグ

アストラル体はサンスクリット語でいうリンガ・シャリーラで、肉体は本質というよりは媒体であり、アストラル体の濃密な面にすぎないといわれる。カーマ、マナス、ブッディはサンスクリット語で、それぞれ、動物魂、心、霊的魂の意。ブッディは高級自我ともいわれ、人間の輪廻する本質を指す。ブッディは全く非物質な本質で、サンスクリット語でマハットと呼ばれる神聖な観念構成(普遍的知性魂)の媒体といわれる。

ブッディはマナスと結びつかなければ、人間の本質として働くことができない。マナスはブッディと合一すると神聖な意識となる。高級マナスはブッディにつながっており、低級マナスは動物魂即ち欲望につながっている。低級マナスには、意志などの高級マナスのあらゆる属性が与えられておりながら、カーマに惹かれる下向きのエネルギーも持っているので、人間の課題は、低級マナスの下向きになりやすいエネルギーを上向きの清浄なエネルギーに置き換えることだといえる。

人間は、高級マナスを通してはじめて認識に達するといわれており、マリヤが伝えるイエスの言葉は、わたしにはそのことを意味しているように思われる。

なぜなら、このあと『マリヤによる福音書』ではイエスの教えとして、心魂の上昇する旅が描かれているからで、心魂は七つの権威(煩悩と解釈できよう)――闇、欲望、無知、妬み、肉の王国、肉の愚かな知恵、怒っている人の知恵――に打ち勝ち、時間の、時機[とき]の、永久の安息へと至るのだ。

では、弟子たちの前にイエスが復活したという福音書におけるリポートをどう解釈するかであるが、他の弟子たちはマリヤほどの高い境地には達していなかったため、死んだイエスには、《復活》するしか彼らと接触する手段がなかったということは神秘主義的に考えれば、充分ありそうなことだと思われる。

 パラマンサ・ヨガナンダ著『ヨガ行者の一生』(関書院新社、昭和35年)では、ヨガナンダの師匠であったスリ・ユクテスワァが死後に出現する場面が、感動的なタッチで描かれている。

尤も、ヨガナンダの場合は優れた弟子であったから、ユクテスワァは、イエスがマリヤに出現したのと同じような、死者自身に負担の少ない出現の仕方もできたはずだが、ユクテスワァはヨガナンダを喜ばせるために、あえて《復活》してみせたのだろう。

その場面を、前掲『ヨガ行者の一生』から紹介しておきたい。

 1936年6月19日の午後3時――つまり、ボンベイのホテルでベッドの上に座っていた私は、名称しがたい歓喜の光によって瞑想から覚まされた。すると、驚いたことに、部屋中が不思議な世界に変わっている。天来の光輝が日光にとってかわっているのである。

 肉体の形をとったスリ・ユクテスワァの像を見た私は、恍惚の波に包まれた。
「私の息子よ」先生は天使のように魅力的な微笑をたたえながら優しくいった。
 私は生まれてはじめて跪座の礼も忘れて、飢えたように先生を両腕に抱きしめた。ああなんという素晴しい瞬間だろう! 今私の上に降った奔流のような至福に比べるならば、過去数ヵ月の苦悩は物の数ではなかった。
「私の先生、私の心の愛するお方、あなたはどうして私を置いて行かれたのですか」私は喜びの余りわけのわからぬことを口走った。「どうして先生は、私にクムパ・メラに行くことを許されたのですか。私はあの時先生の傍を離れたことをどんなに後悔したか知れません!」
「私は、ババジと私の邂逅の地を見たいという、お前の美しい期待をさまたげたくなかったのだ。私はお前とほんの暫く離れているだけだ。お前もいつかは私の処に来るのではないかね?」
「でも、これは本当に先生なのでしょうか、あの神のライオンである先生なのでしょうか? 先生が今着ておられるその肉体は、私がプリの庭に埋葬したあの肉体と同じものなのでしょうか」
「そうだ、子供よ。同じものだ。これは血の通う肉体だ。私の眼にはエーテル体に見えるが、お前の眼には物質に見えるであろう。私は宇宙原子から全く新しい体を創ったのだ――お前が夢の国で、プリの夢の砂地に埋葬した夢の肉体と全く同じ肉体を、わたしは実際に復活したのだ。此の世でなしに、幽界に――幽界の居住者達は、此の世の人々よりもずっと容易に私の高い水準に順応することができる。お前も、お前の愛する高弟達も、いつかは幽界の私の許に来るであろう」
「ああ、死を知らぬ先生、もっと話してください、お願いです!」
 先生は愉快そうにクスクス笑った。「ヨガナンダ、お願いだからもう少し抱擁を緩めてくれないか」
「ほんの少しだけですよ」私はまるで蛹のようにしっかり先生に獅噛みついていた。私には彼特有のほのかな香りよい体臭が感じられた。今でもこの時の輝かしい会合を思い出すと、両腕と掌の内側に先生の神々しい肉体のぞっとするような感触が蘇ってくる。 


ちなみに、ヨガナンダの死に際して起こったことを前掲の『ヨガ行者の一生』から紹介すると、晩餐会における演説を終えたヨガナンダはマハーサマージ(ヨギが肉体を脱する際の意識状態)に入った。そして遺骸に関する検証は、20日経って柩に青銅の蓋がかぶせられる直前になっても死体の状態には何ら分解の色が見えず、死臭が漂うことも全然なく、生前そのままの状態を維持していた……と驚きを持って報告している。

前掲のブラヴァツキー著『実践的オカルティズム』では、アデプト(イニシエーションの段階に達し、秘教科学に精通されたかたをいう)は、特別な場合に使うために作られるマーヤーヴィ・ルーパー(幻影体)を自在に使うことができると解説がある。

そこまでレベルを落とさなければ、マリヤ以外の弟子たちにはイエスは出現できなかったのだとしたら、イエスの復活は、復活という負担を師匠に強いらねばならなかった弟子たちの――弟子に選ばれたにしては――一般人とあまり変わらない劣等生ぶりをあかし立てる恥ずかしい事態以外の何物でもないとわたしは思う。その後、イエスの《復活》が満艦飾にイルミネーションされ、広告塔に使われたことを考えると、恥ずかしいというより、人類を知的に退化させるあまりの愚かしい事態に戦慄を覚える。

マリヤは『マリヤによる福音書』の中では、イエスが愛した女性として、そして、イエスに愛されるに足るだけの高い境地に達した愛弟子として描かれている。しかしマリヤの言葉が、ペトロはじめ弟子たちの嫉妬と不審を買ったらしいことが四のくだりでわかる。その様子は、あまりにも人間臭く、生々しい。

 すると、アンドレアスが答えて兄弟たちに言った、「彼女が言ったことに、そのことに関してあなたがたの言(いたいと思)うことを言ってくれ。救い主がこれらのことを言ったとは、この私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから」。
 ペトロが答えて、これらの事柄について話した。彼は救い主について彼らに尋ねた、「(まさかと思うが)、彼がわれわれに隠れて一人の女性と、(しかも)公開でではなく語ったりしたのだろうか。将来は、われわれは自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。(救い主)が彼女を選ん〈だ〉というのは、われわれ以上になのか」。
 そのとき、〔マ〕リヤは泣いて、ペトロに言った、「私の兄弟ペトロよ、それではあなたが考えておられることは何ですか。私が考えたことは、私の心の中で私一人で(考え出)したことと、あるいは私が嘘をついている(とすればそれ)は救い主についてだと考えておられるからには」。
 レビが答えて、ペトロに言った、「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ。今私があなたを見ている(と)、あなたがこの女性に対して格闘してるのは敵対者たちのやり方でだ。もし、救い主が彼女をふさわしいものとしたなら、彼女を拒否しているからには、あなた自身は一体何者なのか。確かに救い主は彼女をしっかりと知っていて、このゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。むしろ、われわれは恥じ入るべきであり、完全なる人間を着て、彼がわれわれに命じたそのやり方で、自分のために(完全なる人間)を生み出すべきであり、福音を宣べるべきである、救い主が言ったことを越えて、他の定めや他の法を置いたりすることなく」。〔    ±8    〕したとき、彼らは〔告げるため〕、また宣べるために行き始めた。

ペトロたちを、ここではレビが諭すことにどうやら成功したかのようだが、その後にマリヤが排斥、追放されたことはありえることだ。でなければ、『マリヤによる福音書』が隠されてなどいただろうか。『マリヤによる福音書』の欠損が惜しい。

わたしにはイエスを仏陀のような、この世という学校を卒業したけれど、後輩の指導のために、あえて母校を訪れてくれた親切なOBの一人としてしか、思い描くことはできない。
もし、パウロがイエスに由来すると思い込んだ体験が茶番劇でなければ、彼の精神を受け継いだ教会のその後の強引で暴力的な行いと、世俗的な成功は何だろう?  その哲学性ゆえに男女平等の立場を貫くグノーシス主義が勝っていたら、キリスト教にも女教皇が当然のようにいただろうし、東西の思想的な分裂もそれほどではなかったかもしれない。

正統性を声高に暴力的に主張するカトリックとの関わり合いの中で、グノーシスの精神を受け継いだカタリ派がデミウルゴス(創造神)を悪魔とまで言い切る姿に、わたしは彼らの歴史的に形成されたトラウマ(精神的外傷)を見る思いがする。

後世に希望を託して写本を隠した人の思いは、如何ばかりであったろう。このことを逆から見れば、それまでは隠す必要がなかったわけだ。

ブラヴァツキー夫人は祈りを三つに分類している。

  1. 嘆願。
  2. 神を呼ぶ、まじない。
  3. 「隠れたるところにおいでになる父」との霊交。

3.を唯一可能にする、神秘そのものの清浄な意志の祈り(これは、祈りを錬金術でいう哲人の石に変えるので、霊的変質の過程といわれる)以外の祈りは、容易に黒魔術の手段に堕ちる。

神秘主義では祈りについて、それが人間の自信をなくさせ、生まれつきもっている以上のひどい自己本位を育てる畏れがあるとしており、祈ることが脳天気に奨励されることは決してない。〔わたしは過去、重体の母の枕許で祈りについて徹底的に考えさせられた。祈ることができなくなり、そのあとですばらしい内的体験が訪れた→拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」:34 枕許からのレポート参照。〕

戦争では殺しさえ神の名のもとになされることがあり、自分だけのメリットを願う祈りは広く一般化している。神秘主義は、こうしたありふれた祈りが放つ臭気に怖気をふるうのだ。

宇宙と人間の構造に関して神秘主義の哲学(表現の違いはあっても、東西の神秘主義は同一の知識を共有していることがわかる)を採用していたカタリ派は、祈りの危険性に敏感だった。だから帰依者(一般信者)に祈ることを禁じたのだ。

神秘主義に通じてさえいれば、この辺りの事情はすぐにわかるのだが、エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ(井上幸治 & 渡邊昌美 & 波木居純一訳)『モンタイユー ピレネーの村1294~1324』(刀水書房、1991)を著したアナール派にはわからなかったようだ。

『モンタイユー』が凄腕のエリート異端審問官ジャック・フルニエによる異端審問記録をもとにした貴重な民俗誌であるのに、異様に読みづらく、この読みづらさは何だろうと思っていたら、キリスト教的分析という以上の独断、偏見といえる感想が夥しく混じっているからだと、カタリ派の祈りが採り上げられた箇所でようやく気づいた。

何としたことか、カタリ派は中世と現代における二重の異端審問の禍に見舞われたのだった! それにしても、またしてもアナール派だ! カトリックの牙城なのか?

『モンタイユー』から問題の箇所と、ルネ・ネッリ(柴田和雄訳)『異端カタリ派の哲学』(法政大学出版局、1996)から、カタリ派における帰依者に対する祈りの禁止の一件を解説した箇所から抜粋しておく。以下は、『モンタイユー』から問題の箇所。

 忘れてならないのは、サバルテスにはフランチェスコ会の影響が低平地ほど強くなかったことである。そのため、頻繁かつ熱烈な、いわゆる集中祈祷の習慣はフォア伯領高地部の本来のカトリックには見出されない。かえって、この地域の異端にその習慣が見られた。それも、完徳者が、あるいは完徳者だけが、熱心に祈っているのだ。ベリバストは一夜に六度も寝床から起出して、下着のままで熱心な祈りを捧げた。ひどくこみあう宿舎では、ベリバストが飛び出して跪くたびに一つの寝床に寝ている他の客が目覚めるので、わざわざ寝床の端に寝させたほどである。同室の客たちが聖人に倣うなどということは問題にならない。彼の敬虔な習慣は誰にも感染していない。そもそも、ベリバスト自身、自分をお手本にせよとは信者に全然要求していないのだ。それどころか、信者には祈るなと申し渡しているのだ! 普段の暮らしのせいで帰依者たちの口は不浄だから、彼らが祈れば「われらの父」という言葉まで汚れてしまう。いみじくもピエール・セリが言っている。
「まことの道にあるお師匠さまたち[ノ・セニユール](善信者)以外には、誰もわれらの父[パテル・ノステル]などと言ってはならないのであります。このわたしどもがわれらの父を口に致しますならば、大罪をおかすことになるでありましょう。それは、わたくしどもがまことの道に入っていないからであります。わたしどもは肉を食べたり女と寝ることもあるからであります」
 したがって、あたかも近代国家が塩と煙草を専売にしたように、ベリバストは主の祈りを独占しているのだ。もともとサバルテスの農民は、純朴なカトリックの伝統の中でも、長々と熱心に、心を込めて祈る習慣などもってはいない。アルビジョア派の帰依者になってから余計祈らなくなったのは、この習慣のベリバスト版にすぎないのだ! 実に、彼らは「カタリ派」完全主義の名において、世にももっとも祈らぬ者たるべく指導されているのだ。完全主義はごく一部の者を天使、そして大多数の者を野獣扱いする結果となったのである。

以下は、『異端カタリ派の哲学』から、カタリ派における帰依者に対する祈りの禁止について解説した箇所。

『ヨハネによる福音書』には悪魔がしばしば登場する。しかしこの世の創造者としてではなく、この世の〈王〉としてである。真の神は物質界の「父」にあらずというキリストの断言――もちろんこれをいろいろに解釈できよう――が、この福音書に見出せる。霊的な意味合いからすれば、罪人とは悪魔の申し子である(それゆえにカタリ派では、単なる帰依者[クロワヤン](カタリ派における一般信者)たちは「彼らの父」〔=悪魔〕に呼びかけることになるから、「主の祈り[パーテル]」を神に向けて唱えることはできないとされたのである)。キリストはこう言っている。「あなた方は悪魔を父とする。だから父の欲望をあなた方は満たそうとする!」(同8-44、クレダ版175ページ)。

カタリ派における帰依者に対する祈りの禁止は、祈りの本質を厳密に分析した結果の用心深さであって、『モンタイユー』の著者が鬼の首でもとったように批判するような(人道に反するとでもいいたいのだろう)、理不尽な差別を原因とするものではない。それは神秘主義における祈りの定義を踏襲した結果の科学的判断といってよい。

マドレーヌ・スコペロ(入江良平 & 中野千恵美訳)『グノーシスとは何か』(せりか書房、1997年)の日本語版への序文の中に、次のような一文がある。

グノーシス主義者――この名称は彼らの思想を反駁したキリスト教の反異端者が用いていた通称なのですが――は、二世紀と三世紀における知的エリートでした。彼らは、哲学的な文化およびさまざまな伝統(ギリシャ、ユダヤ、キリスト教)に養われた繊細な聖書の釈義者であり、寓意の技術にたけており、自分たちの思想学派を創設して、その教義をローマ帝国内に普及させました。

カタリ派がグノーシス主義の影響を受けたのだとすると、グノーシス主義では寓意が好まれたことをよく考慮せねばならない。悪魔、とはある科学的な性質、現象、段階といったものを寓話で語った場合の表現に他ならないのかもしれないという推測が働く。

ところで、グノーシス主義とは何か?について、アカデミックな学会はどう定義づけているのか、前掲のマドレーヌ・コスペロは述べている。

 グノーシス主義とは何か?
 ここではグノーシス主義を、ローマ帝国で後二、三世紀に発展した、知識の概念を中心とする一つの思想運動という意味で用いる。
 グノーシスというのは、彼らの共通する思想傾向を指す。これは知識の概念をめぐって見出される彼らの公分母である。この意味においては、マニ教、マンダ教、カバラもまたグノーシスの諸形態とみなしうる。
 つまり、グノーシス主義という術語には明確な歴史的含意があるが、グノーシスという術語にはそれがない。
 グノーシス主義とグノーシスのこの区別は、ウゴ・ビアンキ教授を議長としてメッシーナで開催されたグノーシスをめぐる学会(1966年)における討議を通じて定められたものである。

ここで話題は、今一度『モンタイユー』に戻るが、 異端審問官ジャック・フルニエが凄腕を発揮したのは、1290年から1320年にかけてのことだった。

カタリ派最期の砦モンセギュール陥落が1244年だから、フルニエは彼の管轄した地域に残るカタリ派の余韻を徹底して消し尽くそうとしたわけなのだ。フルニエはその後出世して、1327年に枢機卿、34年にはアヴィニョンの教皇に選ばれた。法号はベネディクトゥス12世。

ところで、ブラヴァツキー夫人は『シークレット・ドクトリン』で、彼女の『アイシス・アンヴェールド』ではグノーシス派や初期のユダヤ人のキリスト教徒やナザレ派やエビオン派の体系が充分に考察されたといっている。

『シークレット・ドクトリン』にも、グノーシス派の文献からの引用はあちこちに散りばめられている。例えば、マドレーヌ・スコペロの『グノーシスとは何か』に、グノーシス派の著者たち自身の文献として『ピスティス・ソフィア』と呼ばれているものが紹介されているが、『シークレット・ドクトリン』にはこれが出てくる。

ナグ・ハマディ叢書の発見は1945年のことで、ブラヴァツキー夫人は1891年に亡くなっているから、彼女にとって『ピスティス・ソフィア』は特に貴重な文献と思われたに違いない。

以下の引用はH・P・ブラヴァツキー(田中恵美子 & ジェフ・クラーク訳)『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1989)の付録――議事録――からの断片的な抜粋にすぎないので、ここで質疑されている内容についてはわかっていただけないだろうが、ブラヴァツキーがグノーシス派を出す場合の方法をお目にかけることはできると思うので、あえて以下に抜粋、紹介しておきたい。ここで話題になっているのは、『ジヤーンの書』と呼ばれる書に出てくる“第二の七者”と“原初の七者”及び“神聖な四者”との関係。

 魔術師シモンから史上で最も高尚な哲学体系である『ピスティス・ソフィア』にいたるまで、西暦の最初の二、三世紀のグノーシス派の体系を先ず勉強すれば、その関係をもっとよく理解できる、というよりもすべての理解力を超えたものであることが分るでしょう。そうした体系はみな東洋から得たものです。私達が“原初の七者”と“第二の七者”と呼ぶものは、魔術師シモンに“アイオーン”、そして第一、第二、第三のスズキー(対[つい])のシリーズと呼ばれます。それらは等級制の発散物であり、根源的な原理からますます深く物質に降下するものです。シモンは根源的な原理を火と呼び、私達はスヴァバヴァットと呼びます。私達の体系でもそうですが、その火の背後に、顕現したが、沈黙を守る神、即ち、“有り”、“有った”、“永遠に有るであろうもの”が存在します。シモンの哲学体系とそれとを比較してみましょう。
『フィロソフメーナ』即ち、『哲学的思想』の著者はシモンの著作の言葉を引用します。

最初の顕現した原理である‘火’(第三ロゴス)は永遠の安定性と不死性を持っているが、その不変性はは活動を排除するわけではないし、そこから発する第二の原理は知性と理性(マハット)をもっているので、火は活動の可能性から活動そのものへと移った。この一連の進化から六人の存在が形成された。即ち無限の力からの発散物である。それらは対の形をとった。つまりそれらは二つずつ炎から発せられたものであり、一方は能動的、他方は受動的であった”。シモンはこれらに霊(ヌース)と想念(エピノイア)、声(フォーネー)、と名称(オノマ)、理性(ロギスモス)と反省(エンテュメーシス)という名前をつけました。“これら六人の原初の存在それぞれの中で、無限の力の全体が存在していたが、活動としてではなく可能性として存在した。その本質と美徳と壮大さと影響力が完全に現れるために、イメージ(模範の)を通してその中で確立されなければならなかった。するとはじめて親なる力のように無限永遠なものとなることができる。一方、もしイメージを通して形成されなかったら、その潜在力は決して無力となり、活動に移ることはなく、使用されないので、なくなってしまう。文法あるいは幾何学の才能を持っている人がその能力を役に立てないと、まるで才能がはじめからなかったように、なくなってしまうのと同じことである。”
 アイオーンが高級、中級、低級の世界のいずれかに属するにせよ、みな一つであり、その質料の濃密度が違うだけであるとシモンは言います。質料の濃密度はアイオーンの外的な現れとそこから生じる結果を決めますが、同一のものであるその本当のエッセンスと、不変の法則によって永遠に定められたそれらの相互関係を決めるわけではありません。
 さて、第一と第二と第三あるいは原初の七者とリピカはみな一つです。それらが一つの階層から別の階層へと発散して行く場合、それは“上の如く、下も然り”の反復です。質料と濃密度という点で分化していますが、特性では分化していません。同じ特性は最後の階層である私達の世界にも降りて来ます。人間には最高のディヤーニ・チョーハンと同じ可能性が備わっていますが、それをどのように展開したらよいのか分りません。
 アイオーンのヒエラルキアに関して、シモンは三つの対を示しますが、七番目のものとは、一つの階層から次の階層に下降する四番目のものです。
 リピカはマハットから発します。彼等はカバラでは、四人の“記録する天使”、インドでは人間の各々の思いと行為を記す四人のマハーラージャ(四天王)と呼ばれ、『黙示録」では聖ヨハネは“生命の書”と呼びます。彼等はカルマ及びキリスト教徒が“最後の審判”と呼ぶものと直接関係があります。東洋では、それは“マハーマンヴァンタラの翌日”あるいは“我々と共にあれという日”と呼ばれます。大変に神秘的な教えによると、その時、すべてのものは一つとなり、ありとあらゆる個体は一体となりますが、同時にそれは自らを知るでしょう。しかし、今、私達にとって非常識あるいは無意識と思われるものが、その時に絶対的な意識となるでしょう。

魔術師シモンと呼ばれる人物は、『グノーシスとは何か』で、グノーシス主義の大物、重要な教師たちとして紹介される人物のうちの筆頭に来ている。ブラヴァツキー夫人は、『ジヤーンの書』に出てくるある重要な寓意を、ここではそれに当てはまるグノーシス派の寓意で解説しようとし、さらにそこに隠された科学的な意味合いを近代的な用語で解説するという骨の折れる作業を続けているのだ。

『ジヤーンの書』については、『シークレット・ドクトリン』宇宙発生論の上巻に補遺(その1)として編者による註がある。以下。

『キウ・ティ』Kiu-tiは、顕教的にも有名なオカルト文献のチベット語のシリーズの総称的な題目であって、これには寓話と象徴の形で深遠な秘教の教えが含まれている。キウ・ティ=シリーズの最初の巻の一つは『ジヤーンの書』である(ジヤーンはサンスクリット語のディヤーナのチベット風及び蒙古風の発音)。その書には本来の古代の教えが含まれているので、HPBがそれをもとにして書こうと、特に選んだものである。明らかに本来の秘教はキウ・ティ文献中の外部からの関係のない沢山な材料で包みかくされている。『ジヤーンの書』の本当のオカルト部分はキウ・ティ諸巻の最初のほうの一巻であって、主に宇宙発生論を扱っている。

中世のカトリック教会はカタリ派を、そして自分たちの力の及ぶ範囲からグノーシスを根絶したつもりだったのかもしれないが、グノーシス派の哲学はブラヴァツキーの著作の中で生き生きと息づいている。その後、ナグ・ハマディ叢書と呼ばれる大量のグノーシス派の著者たちの文献(古いコプト語の写本)が密封された大きな壷の中から出てきて(発見したのは上エジプトにある村の農民で、発見された場所はナグ・ハマディという場所の洞窟の中)、学術機関での研究も進んできたようだ。

カタリ派はヨハネ福音書を偏愛したことで知られるが、福音書の中ではそれが原始キリスト教の精髄を伝えるものと思われたからだろうし、ヨハネ福音書がそれにふさわしいだけの哲学性(科学性)を備えていたからに違いない。

ユーリー・ストヤノフ
ヨーロッパ異端の源流―カタリ派とボゴミール派
平凡社

先日夫に図書館にお使いに行って貰い、借りた1冊なのだが、この本は凄い。異端の研究を真っ向からやっている人は筋金入りが多いようだが、この本もそんな研究者による著作のようだ。

目次は細かい。以下。

第1章 二元論宗教革命―古代のイラン、ギリシア、ユダヤ
     二つの原理―二元論的伝統の諸相
     双子の霊―原始ゾロアスター教の二元論
     古典ギリシアの二元論的伝統
     創造者と破壊者―ゾロアスター教とその世界宗教への道
     光と闇の父―二元論的伝統の動揺=ズルワーン教の出現
     「油を注がれたる者」と「バビロンの王」―アケメネス朝とオリエント諸宗教の変容
     造物主と告発者―ユダヤ教における二元論的展開
     光の王子と闇の天使―秘教的ユダヤ思想の誕生

第2章 融合と正統
     三つの帝国―ヘレニズム、ペルシア、インド
     東方における融合―大乗仏教とガンダーラ美術
     仲立ちのミトラス―ローマ帝国とミトラスの隆盛
     ミカエルとサマエル―ユダヤ教の天使論と悪魔論
     デミウルゴスと救済者―グノーシス主義二元論の諸相
     玉座と祭壇―ササン朝と国家宗教としてのゾロアスター教
     バビロンの予言者―マニ教の教理と開祖マーニーの生涯
     「偉大の父」と「闇の支配者」―マニ教とその宇宙論体系
     「光の宗教」の伝播―マニ教とその世界宗教への道
     ビザンツの継承者―マニ教とキリスト教の異端

第3章 大異端の勃興―東方キリスト教世界の異端諸派
     ステップからバルカンへ―ブルガール人のバルカン半島進出
     汗(ハーン)と皇帝―ブルガリアとビザンツの確執
     異教、異端、そしてキリスト教―異端パウロス派
      とビザンツ帝国の危機
     ローマ、コンスタンティノープル、テフリケ―ビザンツ皇帝
      の異教討伐
     ゾロアスター教の記念祭
     「暗黒のマニ教」の末裔―異端ボゴミール派
     ボゴミール派、始まりの謎
     試練の時
     アナトリアの異端―エウテュミオスの報告するボゴミール派
     トラキア・エウキテス派の三大原理―ミカエル・プセロス
      の報告するボゴミール派
     アレクシオス・コムネノスの十字軍―ビザンツ皇帝の反異端活動
     コンスタンティノープルの審判―異端告発の夜
     マヌエル・コムネノスとステファン・ネマーニャ―二人の君主
      による異端弾圧

第4章 二元論教団―西欧のカタリ派異端
     西方の異端―カタリ派に先立つ二元論異端
     カタリ派の勃興
     ラングドッグのカタリ派―絶対的二元論の信奉者へ
     サン・フェリクス信徒集会と二元論教会―カタリ派教会秩序の構成
     大分裂―絶対的二元論派と穏健的二元論派

第5章 二元論主義への十字軍―二元論教団と正統教会
     公会議と十字軍―アルビジョア十字軍の快進撃と停滞
     抑圧と抵抗―カタリ派信徒と異端審問団の睨み合い
     モンセギュール陥落
     ローマとバルカン半島の異端―バルカン異端への教皇の敵意
     カタリ派の衰退―異端審問の仮借ない締めつけ
     異端教皇
     ボスニア教会とスクラヴォニア教会―ボスニアの二元論信徒
     静寂主義とボゴミール派―限りなく異端に近い正統思想とその衝撃
     異端とボスニアの政治―ボスニアにおける二元論宗教の行方
     バルカン二元論の運命―墓碑に現れた古代の二元論信仰

第6章 二元論伝説―ボゴミール派=カタリ派の世界観
     キリスト=ミカエルとサマエル=サタン―異端派の宇宙創生論
     善なる神と邪悪の神―ボゴミール=カタリ派が明かす世界の秘密
     ベツレヘムとカペナウム―ボゴミール派=カタリ派の聖書解釈

以上、目次を見ただけで、スケールの大きさがわかるというもの。書かれているのは、ヨーロッパ、小アジア、中東といった地域における古代から中世に及ぶ宗教史なのだ。ついでに、日本語版への序文の冒頭部分を抜粋しておきたい。

 本書の原題となった『ヨーロッパの隠された伝統』とは、中世ヨーロッパで異端派が取り沙汰されるときに流通していたある見解を指す言葉である。それは、異端派自身がそう考えていたばかりできなく聖俗にわたるその敵手たちのあいだでも、当然のことと受けとめられていた。この見解によれば、ボゴミール派とカタリ派という中世ヨーロッパの二元論異端は、行きつくところ、古代末期からその時に至るまで「隠され」、秘密のうちに伝承されてきた、とある伝統に由来する。カトリック教会やオーソドックス教会に属する、二元論異端の敵手や迫害者たちは、おおかた、この「隠された」伝統を、アジアやヨーロッパのキリスト教の古代における敵、マニ教と見なすか、時には、古代のほかの異端諸派と関連づけて考えていた。が、その一方で、当の二元論異端者たちが説くところによれば、この伝統こそ、キリスト教揺籃期の使徒たちの「純粋な」キリスト教精神の直系の末裔なのであり、この使徒的伝統はやがて教会によって堕落させられたというのであった。このような訳で、あるコンテキストにおいては、この「隠された」伝統の復権は、一種の「秘められた歴史」とも考えられることができたので、乏しい、あるいは、敵意に満ちた史料やそれについての言及から、宗教的発展の抑圧された、あるいは、秘匿された底流を再構築する努力が払われてきたのである。

この方面のより徹底した、西洋のみならず東洋をも覆い尽くしたほどによりスケールの大きな、精緻を極めた研究者がブラヴァツキーだとわたしは思っているが、彼女の指針を連想させるような研究書に出合えるのは嬉しい。しかしこの著作も内容は盛り沢山で、読み終わるには時間がかかりそうだ。

図書館から借りた本の中で、どうしても所有したい本が何冊か出てきた。この本はそのほしい本の候補となりそうだ。過去記事「考察…カタリ派における祈り」が中途半端なのだが、昨晩読みかけたこの本のことを先にメモをしておこうと思った次第。

佐藤賢一『オクシタニア』(集英社、2003年)。読みかけたが、オック語が関西弁に変換されているというだけで、わたしはパス……。

「棄教したら、土壇場でも命は助けてもらえるんやろ」
 「それはそうや」
 「だったら、しょぼくれた顔せんとき」

関西弁で読むと、モンセギュールのあの峻厳な岩山がどうしても浮かんで来そうにない。パリのある北よりも当時は洗練された先進地域だったというカタリ派の栄えた南に関西を重ねる試みはわからないではないが、日本の風土が匂いすぎて、わたしは抵抗を覚えてしまう。

ただ、『オクシタニア』には、『モンタイユー』という異端審問の記録をもとに書かれた民俗誌の雰囲気に似たものがあり、人間がどんな思想のもとにどんな人生を送ろうと、生活面の記録だけを拾っていけば如何にも俗っぽい素描が出来上がるのだと思わされる。

しかし、『モンタイユー』の読書もまだこれから――で、たぶん後回しになる。エレーヌ・ペイゲルス『ナグ・ハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端 』(荒井献/湯本和子訳、白水社 1996年)が、まさに歴史ミステリーといってよい、ぞくぞくするような面白さに満ちているので。訳者あとがきによると、著者は才気と美貌で知られた人物らしい。同じ著者のものを今回、2冊借りている。

カタリ派はグノーシスの影響を受けているといわれているが、著書の初めのほうから、グノーシスについて書かれた部分を以下に抜粋しておく。

 異端排斥運動は、異端の持つ説得力を不本意ながら認めたことになるが、しかし、司教たちのほうが優勢を占めた。コンスタンチヌス帝改宗の頃、キリスト教が4世紀に公認宗教となった時には、かつて官憲によって苦しめられていたキリスト教司教たちは、今や彼らを支配する立場になった。異端として排斥された本を所持することは、犯罪的行為とされた。これらの本のコピーは焼却され、破壊された。しかし、上エジプトで誰かが、たぶん近くの聖パコミオス修道院の僧侶の一人が、禁書を持ち出して、破壊から救った。――これが壷の中に、ほぼ1600年埋もれていたのである。

 しかし、これらのテクストを書き、それを流布した人々は、自らが「異端者」だとは思ってもいなかった。文書の多くはキリスト教の術語を使い、まぎれもなくユダヤ教の伝統に関っていた。その多くは、2世紀に「カトリック教会」と呼ばれるようになったものをつくった「多数者」の目から隠されていた、イエスに関する秘密の伝承を提供しようとしている。このようなキリスト教徒たちは現在グノーシス主義者と呼ばれているが、この呼称はギリシアのgnosis(グノーシス)に由来し、通常knowledge(「認識」)と訳されている。究極の実在は知り得えないと主張する人々のことをagnostic(不可知論者――字義通りには、「知らないこと」)と呼ぶが、他方、そのようなことを知り得ると主張する人々のことをgnostic(グノーシス主義者――字義通りには、「知ること」)と呼ぶ。しかしグノーシスは、元来合理的認識ではない。ギリシア語では、科学的ないしは反省的認識(「彼は数学を知っている)」と、観察や経験を通して知ること(「彼は私のことを知っている」)とが区別されており、後者がグノーシスなのである。グノーシス主義者がこの用語を使う場合、われわれはこれを「洞察[インサイト] 」と訳すこともできるであろう。というのは、グノーシスは自己を認識する直観的過程を意味するからである。また、彼らの主張によれば、自己を認識することは、人間の本性と人間の運命を認識することである。小アジアで(140-160年頃)著作活動をしたグノーシス主義者の教師テオドトスによると、グノーシス主義者とは、次の問題の認識に達した人のことである。

われわれは何者であったのか。また、何になったのか。われわれはどこにいたのか……どこへ行こうとしているのか。われわれは何から解き放たれているのか。誕生とは何か、また再生とは何か。

 しかし、自己をもっとも深いレベルで認識することは、同時に神を認識することである。そして、これこそがグノーシスの奥義なのである。グノーシス主義のもう一人の教師モノイモスは、こう述べている。

 神とか、創造とか、これに類したことを捜し求めるのはやめなさい。あなたがた自身を出発点にして、彼(究極的存在)を求めなさい。あなたがたのなかにあって、すべてのことを思う通りになし、「わが神よ、わが心よ、わが思いよ、わが魂よ、わが身体よ」と言う者は、誰であるかを知りなさい。悲しみ、喜び、愛、憎しみの源の原因を知りなさい。……あなたがたがこのようなことを注意深く吟味するならば、あなたがた自身のなかに、彼を見出すであろう。

ここまで読んだ時点では、グノーシスの哲学とは、わたしの知る限りヨガ哲学以外の何ものでもない。

このページのトップヘ