『鹿島市史真実の記録』(田中保善、平成2年)によると、祐徳稲荷神社の創建者、萬子媛は出家して19年、数え年80歳で余命幾ばくもないと悟られたとか。

寿蔵に入って座禅をし、外から岩の蓋をかぶせて貰い、禅定に入って大往生を遂げられたと伝えられる、あっぱれな大名の奥方だった。

念仏の声は岩の蓋の外まで、1週間以上も聴こえていたという。

萬子媛は黄檗宗(おうばくしゅう)の信者だった。ググったところ、黄檗宗とは、中国明末清初の禅宗の僧、隠元隆琦(1592-1673)によって日本に伝えられた、念仏禅を特徴とする明朝禅だそうだ。

わたしは若気の至りで自己流の断食を試み(とても危険なことであるから、絶対にしないほうがよい)、4日でギブアップした経験があるから、体の弱った状態で岩壁に籠もり、念仏を唱えながら死ぬまで断食を続けるという行為がどれほど壮絶なことであるのかが想像できる。

人間の体は食物がなくてもしばらくは何とかやっていけるに違いないが、水がないとだめで、わたしは断食を始めてしばらく経った頃、水分の不足から吐き気が止まらなくなった。吐く物はもう何もなくなっていのだが、腹部が怖ろしいほどに痙攣して、とにかく吐き気が止まらない。

このままでは死ぬと思ったので、吐き気を止めるために水を飲み、もう少し断食を続けた。

萬子媛には、そのような生理現象は起きなかったのだろうか。岩の外にまで声が聴こえたというから、ギブアップする気になれば、直ちに蓋は除けられたに違いない。

萬子媛がいくら筋金入りの尼さんだったとはいえ、外で成り行きを見守る人々は、どんなにハラハラしたことだろう。

亡くなったのは宝永2年(1705年)、4月10日だったという。

今年は2013年だから、萬子媛の大往生時から308年経っている。あの世で楽しく遊び暮らす(?)こともおできになっただろうに、創建者の努めとして、俗人の群れを300年以上も見守り続けるということをなさっているというわけだ。

究極のボランティア、としかいいようがない。

わたしは萬子媛があの世で具体的にどんな暮らしを送り、どのような見守りかたをなさっているのか――つまり、そのボランティア体制とか、期間の問題とかだが――神秘主義者として興味がわくところだ。

わたしは同じようにサント=ボームの岩山の洞窟内に30年籠もって悔い改めの修行生活を送り、そこで亡くなったと伝えられるマグダラのマリアを連想せざるをえない。

プロヴァンスに伝えられるこの話が本当だとしたら、マグダラのマリアもまた、そこを拠点として究極のボランティアを続けていらっしゃるのだろうか。

いずれにせよ、この両者、どこが違うというのだろう?

修行法、亡くなりかたはよく似ているし、その方々を慕ってご利益に与ろうとする俗人の群れ(わたしもその一人だが)にしても、たぶん性質は同じだ。

ましてや、過去記事で書いたように、おそらくイエスの愛弟子だったに違いないマグダラのマリアは、イエスがそうであったようにエッセネ派の影響を受けたことはほぼ間違いないと思われる。

このエッセネ派とはブラヴァツキーのリサーチによると、ピュタゴラス派で、死海の畔に居を構えていた仏教徒(プルニウス『博物誌』)の影響を受けたという。そして、その影響によって思想体系が完成されたというよりも、むしろ崩れていった。

№80 ピュタゴラスとエッセネ派の関係。貞節の勧告。 

https://etude-madeleine.blog.jp/archives/9067602.html

萬子媛は仏教徒であったが(稲荷大神を奉祀されていたのは、当時は自然なことであった神仏混淆のためである)、19世紀末にエジプトで発見されたパピルス写本『マリア福音書』など見ても仏教的ムードがあることからして、マグダラのマリアにも、エッセネ派などを通して仏教的な何らかの影響が及んでいたということも考えられる。

仏教の本質は神秘主義で、徹底した自力本願であるが、未熟であることを自覚する人間が徳のある方々を慕い、その徳に薫染したいと願うのは自然なことだと思う。徳のある方々は、この世にばかりいらっしゃるのではなくて、むしろあの世のほうにいらっしゃることをわたしは知っている(その逆のおぞましい存在もまた……)。

わたしは萬子媛の史跡(祐徳稲荷神社にある石壁神社)を訪ね、そこで萬子媛の高雅な存在感に触れ魅了された。マグダラのマリアの聖地も訪ねてみたいと思っているのだが、この懐の寒さでは今生では無理かもしれない。

マグダラのマリア伝説に触発されて執筆を始めた『不思議な接着剤』はマリアの聖地やカタリ派の里を訪ねずして書くのは難しく、中断中。


2020年9月18日の追記:
拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」の以下の記事で詳述しているが、萬子媛が病死されたことはほぼ確実と思う。部分的に引用しておく。

89 祐徳稲荷神社参詣記 (9)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/11/22/004109

萬子媛が今なお生き生きとしてオーラの威光に満ち、神社という形式を最大限に活用して毎日あの世からこの世に通い、千手観音のようにボランティア集団の長として活動なさっていることがわたしにわかるくらいだから、神秘主義的感性に恵まれた人であればどなたにもわかることではないだろうか。

しかしながら、肉身としての萬子媛は宝永二年閏四月十二日(1705年6月1日)に逝去された。祐徳稲荷神社のオフィシャルサイトには、次のように書かれている。「齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました」(祐徳稲荷神社「石壁社・水鏡」 < https://www.yutokusan.jp/sanpai/sekiheki.php >(2018年11月20日アクセス))

祐徳博物館の女性職員は、石壁社の解説にある寿蔵で萬子媛が断食の行を積まれたことは間違いないです――とご教示くださった。

そして、「萬子媛の死の経緯については、鹿島藩日記に書かれていると思います。ちょっとお待ちください」とおっしゃって、全五巻中、何巻にその記述があるか確認してくださった。

三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)に該当する記述があるということだったので、その巻を注文した。

萬子媛は、身体が弱ってからも、断食の行を続けられたのかどうか。断食の行が御老体に堪えたのかどうかもわからない。

いずれにしても、萬子媛(※鹿島藩日記 第二巻』では、萬子媛のことは一貫して「祐徳院様」と記されている)は宝永二年三月六日ごろにはお加減が悪かった。それからほぼ毎日、閏四月十日に「今夜五ツ時、祐徳院様御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」(三好編纂,1979,p.398)と記されるまで、萬子媛の容体に関する記述が繰り返されている(『鹿島藩日記 第二巻』366~398頁)。

この「今夜五ツ時、祐徳院様御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」という藩日記からの抜粋は、郷土史家の迎昭典氏からいただいた資料の中にあった。

『鹿島藩日記 第二巻』にははっきりと「御病気」という言葉が出てくるから、萬子媛が何らかの病気に罹られたことは間違いない。

そして、おそらくは「断橋和尚年譜」(井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)の中の断橋和尚の追悼詩に「末梢(最期)疑うらくはこれ熟眠し去るかと」(井上ほか編,2016,p.92)と描かれたように、一進一退を繰り返しながら、最期は昏睡状態に陥り、そのまま逝かれたのだろう。

鹿島市民図書館の学芸員は取材の中で「石壁亭そのものは祐徳院様が来る前から断橋和尚が既に作っていて、観音様を線刻したような何か黄檗宗の信仰の対象となっているようなところ――洞穴を、自らのお墓に定められたということだと思います」(※エッセー 88 「祐徳稲荷神社参詣記 (8)核心的な取材 其の壱(註あり)」参照)とおっしゃったが、現在の萬子媛の活動を考えると、観音様のようになることを一途に祈念しつつの断食行であり、死であったに違いない。