創作ノート - 不思議な接着剤

執筆中の児童小説「不思議な接着剤」のためのノートです。 リンク、転載を禁じます。

2011年03月


ヒュパティアは古代アレクサンドリアに生きた新プラトン主義最後の女性哲学者で、輝かしい知性と美貌で名高く、アレクサンドリア市民に愛されたといわれるが、狂信的なキリスト教徒によって惨殺された。

415年、アレクサンドリアの新プラトン派は絶えた。それは単に哲学の分野に留まらない大規模な出来事――キリスト教が惹き起こしたまさしく人災――であって、これ以降、真の学問も、それを土壌として花開く芸術さえも、どこか形骸的にならざるをえなくなったことを想うと、ヒュパティアの死は象徴的な意味合いを持つ。

その死は、紀元前3世紀から国際都市アレクサンドリアの中心的存在だった学術研究センター・ムーゼイオンと大図書館の終焉を意味するものでもあった。

紀元前48年、シーザーの侵攻に伴う火災により王立図書館は焼失したといわれるが、姉妹図書館は無傷だったし、他にも焼失を免れた色々な図書館があった。ローマ支配の下でムーゼイオンと図書館は発展を続ける。しかし、3世紀になると、翳りが見え出した。 

その後の状況を、モスタファ・エル=アバディ『古代アレクサンドリア図書館』(松本慎二訳、中公新書、1991年)は以下のように描く。

四、五世紀はムーゼイオンの安定と安全が絶えず脅かされ、したがって学者たちの研究活動にも大きな支障を来した多事多難の世紀であった。ところが驚くべきことに、それでもなおアレクサンドリアは地中海世界の他の学問の中心地に伍して遜色なかった。


 その終焉を以下のように描く。

ムーゼイオンは同時にミューズたちの神殿であったから、他の異教神殿に認められている限りにおいてはムーゼイオンもその神聖不可侵を認められていた。四世紀後半、ヒパティアの下で学んだキレーネのシネジウスはムーゼイオンとその中で研究を続ける哲学者たちのありさまを述べている。しかし五世紀になるとその存在に触れた資料は見出せない。女流学者ヒパティアの父、著名な数学者テオンが記録に残る最後のムーゼイオン・メンバーである(三八〇年頃)ことから考えて、三九一年の、町じゅうのすべての異教神殿を破壊せよというてテオドシウス帝の勅令以後、ムーゼイオンは長くは存続しなかったであろうと思われる。

ただ、あれほどの流れが簡単に途絶えるわけはないのであって、それは地下に潜ったのだとわたしはいいたい。

それにしても、スペイン映画らしいが、ヒュパティアが映画になるとは驚きだ。わたしがマイナーだと想っていたヒュパティア、カタリ派などが大衆的な人気を集めている世相に、不思議な気がしている。西欧及びキリスト教の力が衰えてきたからだろうか。

ところで、今ちょうど、古代におけるユダヤ人迫害の実態を告発したフィロン『フラックスへの反論 ガイウスへの使節』(秦剛平訳、京都大学学術出版会、2000年)を読もうとしていたところだった。上に書いた流れと無関係ではないので、これについてもいずれメモしておきたい。イアンブリコス『ピュタゴラス伝』(国文社)はどうしてもほしいと思っていたけれど、品切れ……。

ご参考までに、ライン以下の続きにヒュパティアについてウィキペディアから抜粋したが、その中に彼女の哲学はより学術的で、その関心のためか科学的で神秘主義を廃し」という不用意な解説がなされている箇所があるので、補足しておきたい。

新プラトン派と神秘主義は切り離せないのだが、神秘主義にも色々とあって、新プラトン派の神秘主義は、科学的であるためには廃さなければならないようなタイプの神秘主義ではなかったからだ。《神秘主義》は、意味合いにばらつきのある誤解を招きやすい用語といってよい。ヒュパティアが廃した神秘主義とは似非神秘主義なのではないだろうか?  

『世界の名著 続2 プロティノス ポルピュリオス プロクロス』(田中美知太郎=責任編集、中央公論社、昭和51年)の中の解説「新プラトン主義の成立と展開」にあるように、新プラトン派と神秘主義は切り離せない。

新プラトン派はプロティノスの哲学体験から「流れ出した」といわれるほどプロティノスとは切り離せないものがあるのだが、以下に抜粋、紹介するように[76頁]、プロティノスは神秘主義者と呼ばれた。まあ以下の解説の中にも、意味合いにばらつきがあって誤解を招きやすい《神》という用語が使われているが……。

 神秘主義

 善なるものとの合一について語ること、そしてみずからそれを体験したと伝えられることによって、プロティノスは神秘主義者と呼ばれる。神秘主義とはむろん、われわれが現世において神と直接的に会うことができるとする思想である。プラトンがすでに神秘主義者であったと見る人々もあるけれども、プラトンを除外すれば、西洋の哲学者のうちでは、プロティノスが最初の明瞭な神秘主義者であり、その後代への影響も大きい。もっとも、「ヌゥメニオスは、魂が自己の諸始元と合一し、まったく区別のない同一のものとなることを肯定しているように見える」(イアンブリコス)と伝えられているので、ヌゥメニオスの哲学にも神秘主義的傾向はあったと見ることが可能であろう。またプロティノスの神秘主義が、少なくとも部分的には、その師アンモニオスから受け継がれたものであることは、きわめてありそうなことである。
 プロティノスの哲学にはオリエントの思想、特にウパニシャッドやバガヴァッド・ギータのそれが影響していると見る研究者が、ときどきある。その場合に問題とされる点の一つは、やはり自己と神の同一性とか、神の合一に関するプロティノスの思想である。しかし大多数の研究者は、彼の思想がギリシア哲学の発展として理解できると見ているようである。それにしてもプロティノスは、ペルシアやインドの思想家に出会うことを求めてゴルディアヌス帝の軍隊に加わったりしたのであるから(『伝3』)、彼自身が自己の思想とオリエント思想の何らかの親近性を自覚していたのではないかと思われる。

ついでに、《神秘主義》について、わかりやすい解説のなされたアンリ・セルーヤ『改訳 神秘主義』(深谷哲訳、白水社、1975年)から神秘主義の概念と定義[9-11頁]を抜粋、紹介しておこう。

 1 神秘主義の概念

 まず第一に、神秘主義についてのさまざまなまちがった考えを、頭の中から取り除かなければならない。「神秘主義」というこの言葉さえも、あまり芳しくない意味を持つようになってしまったのである。神秘家といってもピンからキリまである。われわれはためらわないで、えせ神秘家たちを信用しない人たちに道理ありとしよう。偽ディオニュソスは「神秘主義」を大いなる闇、すなわち「隠蔽された」もの、秘密であるものと呼んでいた。非常に多くの、不安定な心の持ち主たちは、モーリス・ブロンデル[フランスの哲学者、心理学者。一八六一~一九四九]の適切な表現によれば、パトスとパルテモスであるもの、すなわち本能の逆上する熱気、あらゆる種類の感情の錯乱が、肉体の恍惚と地獄の歓喜にまで達することを神秘主義であるとした。神秘主義が制御され得ない力の作用であるとするこうした概念は、まじめな知性には容認されがたいものである。神秘主義は交霊術とはいかなる関係も持たない。えせ神秘家たちはこの最高の叡智を横領し、それを濫用するのであるが、その害を告発するためにこそ理性は批判的に働かなければならないのである。それによって贋物、まやかしに基づく錯覚、矛盾などを取り除き、そして一言で言えば、真の神秘家とえせ神秘家とを識別しなければならない。哲学の本義であるこの理性によって、神秘家の一般的な態度をよく観察し、人間的な尊大さと、ただそれだけが特に神秘である神性の真実の昂揚とを混同しないようにしなければならない。もとより真の神秘家なるものは、すでに述べたとおり《究極においては》合理的精神に欠けるものではないのである。

 2 定義

 神秘主義とは何を意味するのであろうか? 本来は、密儀[ミステール]と秘密の祭礼とに関係のあるギリシア語のμ…(奥義に通じさせる)という言葉に由来するものである。今日では、神秘主義という語は二とおりの意味で用いられる。広義には、理性を超絶しているように思われる何か崇高なものを漠然と暗示している。思想家たちにとっては、その中に「直接的」「直観的」な接触の感覚、自己と自己よりはるかに偉大な、世界の魂と呼ばれるもの、すなわち絶対者との結合が現われる内面的な状態が神秘主義である。換言すれば、それは人間精神と実在の根元との内密な、直接的な結合、すなわち、神性の直接的な把握なのである。

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ヒュパティア
ウィキペディアの執筆者,2011,「ヒュパティア」『ウィキペディア日本語版』,(2011年3月31日取得,https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%91%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2&oldid=36916121).

ヒュパティア(Hypatia、Υπατία、370年?-415年3月)は、古代エジプトの著名な女性の数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者である。ハイパティアともヒパティアとも日本では呼ばれる。キリスト教徒により異教徒として虐殺された。

○人物
テオン(著名な数学者と哲学者であった)の娘であり、ヒュパティアは400年頃アレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長になった。彼女はプラトンやアリストテレスらについて講義を行ったという。そして、彼女の希に見る知的な才能と雄弁さや謙虚さと美しさは、多数の生徒を魅了した。キュレネのシュネシオス(その後410年頃にキレナイカ地方のプトレマイスの司教となる)との間で交わされた彼女への書簡のいくつかはまだ現存している。

数学と哲学の教えを、新プラトン主義の創始者プロティノス(205年- 270年頃)と新プラトン主義のシリアでの分派の創設者ランバリクス(250年- 330年頃)という2人の新プラトン主義者から受けた。『スーダ辞典』("Σοῦδα", "Suda" 『スイダス』とも。10世紀末の百科事典)によると、ヒュパティアはディオファントスが著した『算術』 ("Αριθμητικα", "Arithmetica") にも、ペルガのアポロニウス著の『コニクス』にも、そして、天文のカノン(おそらくはプトレマイオスの『アルマゲスト』)にも著述したという。彼女の父(テオン)の著した『アルマゲスト解説』第3巻にも彼女が加筆したとも伝えられる。『算術』の現存しているアラビア語版の一部として断片的に残っているが、現在これらの著述は失われている。

彼女のアストロラーベ(天体観測儀)とハイドロスコープ(液体比重計としてピエール・ド・フェルマーによって17世紀に確認された)の発明については、彼女に意見を聞いたシュネシオスの手紙の中で知られていることから、彼女が特に天文学と数学に専念したことを示している。また、彼女による哲学の著述も全く存在は知られていない。新プラトン主義の他の学校の教義より、彼女の哲学はより学術的で、その関心のためか科学的で神秘主義を廃し、しかも妥協しない点では、キリスト教徒からすると全く異端であった。それでも、「考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです」とか「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」という彼女のものであると考えられている言動は、当時のキリスト教徒をさぞや激怒させたと思われる[要出典]。その時すでに彼女は、キリスト教から見て神に対する冒涜と同一視された思想と学問の象徴とされたのである。これは、後にヒュパティアの運命を大きく変える。

○当時の社会
キリスト教徒であったテオドシウス1世(当時379年から392年までは東ローマ帝国の皇帝、その後395年までには東西ローマ帝国の両方の皇帝を兼ねた)は、380年に異教と異端のアリウス派に対してローマ帝国全域での迫害の方針を定めた。

391年、彼はテオフィロス(アレクサンドリアのキリスト教司教)の求めに答えて、エジプトの非キリスト教の宗教施設・神殿を破壊する許可を与えた。キリスト教の暴徒は、サラピス寺院やアレクサンドリア図書館や他の異教の記念碑・神殿を破壊した。その後、393年には法律で暴力、特に略奪とユダヤ人のシナゴーグの破壊を抑えようとの試みがなされた。

だが、412年、アレクサンドリアの総司教の職権が、強硬派のキュリロス(英語読みはサイリル)へと継承された。この後に、新たな異教徒の迫害および破壊活動が起きた。

キリスト教徒の集団により、414年、アレクサンドリアからのユダヤ人の違法で強制的な追放と、415年、最も著名なアレクサンドリアの哲学者ヒュパティアの虐殺があった。これで、緊張はその頂点に達した。

四旬節のある日、総司教キュリロスの部下である修道士たちは、馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキの貝殻で、生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した。

キュリロスは、アレクサンドリアから異教徒を追放した功績者として大いにたたえられた。その死後、彼は教皇レオ13世により「教会の博士」として聖人の列に加えられている。ヒュパティアの無惨な死は多くの学者たちが亡命してしまうきっかけともなり、中長期的には古代の学問の中心地であったアレクサンドリアの凋落を招く一因になる。

これらの事件により、ピタゴラスの誕生から続いてきたギリシャの数学・科学・哲学の歴史は終焉する。劇的な虐殺の詳細と共に、博識で美しい女性哲学者としてのヒュパティアの伝説は、後世多数の作家(例えばチャールズ・キングズリー/Charles Kingsley)の『ヒュパティア 古い相貌の新たなる論敵』(1852年)など)の文学作品を生み出した。

米国インディアナ大学では、「ハイペシア叢書」(a Hypatia book)を女性問題の図書として刊行している。

図書館から借りてきた本を返却しなければならないので(また借りるつもりだが)、以下にざっとメモ。

ゲルショム・ショーレム『カバラとその象徴的表現』(法政大学出版局)
27頁

12世紀の末、ラングドッグの地に最初のカバラ思想家たちがユダヤ教の歴史舞台に登場した頃、

とあり、ここではっきりとラングドッグの地名が出てくる。

原田武『異端カタリ派と転生』(人文書院)によると、ラングドッグで栄えたカタリ派の信者200人あまりがモンセギュールの麓で火刑に処せられたのは1244年で、このときに組織として事実上の壊滅した。カタリ派について“十一世紀初頭ぐらいから西欧に広まるキリスト教の異端思想である。
箱崎総一『カバラ』(青土社)に、「ナルボンヌには5世紀頃からユダヤ人居住区があった」とある。
これまで見てきたように(ヨセフス『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代誌』)、イエスがエッセネ派に接触した可能性は充分あり、エッセネ派とカバラは関係がある。エッセネ派、グノーシス、カバラが切り離せないことからしても、カタリ派の教義が無関係とは到底思えない。

イヴィッド・ビアール『カバラーと反歴史 評伝ゲルショム・ショーレム』(晶文社)
53頁

クロホマルはまた、ショーレムに先んじて、彼が明らかにもうひとつの正当な思弁的哲学と考えていた、グノーシス主義とカバラーの顕著な類似性を明示してもいる。両者は、隠れたる神や神の属性の原質化のような観念を共有していた。ショーレムがこれらの示唆された類似性を、ユダヤ教グノーシス主義の持続した形態として一貫したカバラー理論へと敷衍したことを、われわれは見ていくつもりである。

ブラヴァツキー夫人はエッセネ派はピュタゴラス派であり、死海の畔に居を構えていた仏教徒(プルニウス『博物誌』)の影響を受けたという。エッセネ派が仏教的であり、グノーシス文書に見るマグダラのマリアがイエスから受けたとされる教えが仏教的であり、カタリ派の教義が西欧の仏教といわれたことを考えてみると、原始キリスト教が仏教的な色彩を帯びていたとしても不思議ではない。

そもそも、ピュタゴラスの思想があまりにも東洋的なのだ。ブラヴァツキー夫人は「口伝によればオルフェウスはインドから彼の教義を持ってきた人であり、最古のマギ派の宗教を信奉した者」という。
イアンブリコス『ピュタゴラス伝』よると、ピュタゴラスの死後、ピュタゴラス派は口伝衆と学科衆に分かれた。学科衆を受け継いだのはプラトンとその弟子たちだ。プラトンの描くソクラテスには、口伝衆の面影がある。
前掲著『ピュタゴラス伝』を読むと、ピュタゴラス派とオルフェウスは無関係ではありえない。以下は注より。

紀元前七世紀に黒海とギリシアとの交易が開かれたため、スキュティア、トラキアでギリシア人はシャーマニズムに接触し、そのさいオルペウスもシャーマンとしてギリシア世界に紹介された。しかし、オルペウスがギリシア化される過程で、シャーマン的性格は剥奪され、合理化された。


オルペウスの教義でもっとも有名な魂の転生は、古典期には確証されていない。しかし、魂は前世での罪ゆえに、現世で肉体という牢獄に閉じ込められ、罰せられている、ということから転生は容易に推論できる。これらとピュタゴラス派の教義の一致は偶然ではない。南イタリアにオルペウス文書を奉ずるオルペウス教がすでに根を張っているところに、ピュタゴラス派が入ってきたからである。

何にしても、イアンブリコス『ピュタゴラス伝』には驚くほどいろいろなことが書かれているので、丁寧に読んでいく必要がある。

イアンブリコス『ピュタゴラス伝』(国文社)
できればこの本はほしい。4,500円+税。何回も図書館から借りてくることになるだろうから。資料的価値としてもすばらしいし、面白さに取り憑かれる。天球の音楽、懐妊期間の算出法など、あまりにも印象的だ。この本には補遺として、ポルピュリオス『ピュタゴラス伝』まで収録されているという贅沢さなのだ。

ピュタゴラスの最期について。注より。

(略)ピュタゴラス派への権力の集中、高踏的な態度への反発から、紀元前六世紀と五世紀の境目あたりで、キュロンを中心とする反乱が起こった。ピュタゴラス派の指導者たちが殺され、ピュタゴラスもメタポンティオンに逃れて、ムーサの神殿に退避し、そこで餓死した(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第八巻四○、ポルピュリオス『ピュタゴラス伝』五七)といわれている。

プリニウス『博物誌』

全訳は、県立図書館で読まなくてはならない。借りられるのは植物篇、植物薬剤篇のみの訳だが、これにも既に取り憑かれた。

植物にかんする興味深い記述もさることながら、歴史的エピソードが絢爛豪華に散りばめられているのだ。

例えば「パピルス紙の発明」に、“プトレマイオス王とエウメネス王の蔵書をめぐる競争のために、プトレマイオスが紙の輸出を止めたので、ベルガモンの羊皮紙が発明された。”というようなあっと驚くエピソードが何気なく挿入されている。

プリニウス,中野 定雄,中野 里美,中野 美代
雄山閣出版
発売日:1986-06

図書館から借りてきたのは下の「植物篇」、及び「植物薬剤篇」のみ邦訳した原典訳。上のはローブ版英訳からの重訳だが、全訳だから、次の休みにはこれを借りてきて貰おうと思っている。

ちょっと内容を確認するつもりだったのに、あまりの面白さに本から離れることができない。ヨセフスの『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代誌』も、悲惨な内容を含んでいるのに、描写が生き生きしていて、著者の博識を感じさせるだけでなく、どこか優雅なところがあって、とても面白いと思うが、これはまた。世の中にこれほど面白い本があったのかと思うほどだ。

プリニウスの『博物誌』について以下にウィキぺディアより抜粋。

プリニウスの博物誌

ウィキペディアの執筆者. “博物誌”. ウィキペディア日本語版. 2011-02-11. http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8D%9A%E7%89%A9%E8%AA%8C&oldid=36304039, (参照 2011-03-09).

『博物誌』(Naturalis Historia)は、1世紀ローマの博物学者、政治家プリニウス(22 / 23 - 79)が著した書。全37巻。地理学、天文学、動植物や鉱物などあらゆる知識に関して記述している。数多くの先行書を参照しており、必ずしも本人が見聞、検証した事柄だけではない。怪獣、巨人、狼人間など今日から見れば荒唐無稽な内容も含まれるし、学問的に体系的な書とは言い難い。

古くから知られていたが、特にルネサンス期の15世紀に活版印刷で刊行されて以来、ヨーロッパの知識人たちに愛読され、引用されてきた。科学史・技術史上の貴重な記述を含むほか、芸術作品についての記述は古代ローマ芸術についての資料として美術史上も珍重された。また、幻想文学にも影響を与えた。

プリニウスが記した『博物誌』には、実在する生物に混ざって、ペガサス、ユニコーン、スフィンクス、マンティコア、サラマンダーといった有名なものから、コロコッタ、アンフィスバエナ、カトブレパスなど、あまり知られていないものまで、多数の怪物が記されている。”

 以下は同じくウィキぺディアより構成。

 主な内容

第1巻 序文
第2巻 天文
第3 - 6巻 地理
第7巻 人間
第8 - 10巻 動物
第11巻 昆虫
第12 - 19巻 植物
第20 - 27巻 薬草
第28 - 32巻 動物性薬品
第33巻 鉱物
第34巻 彫刻
第35巻 絵画
第36巻 建築
第37巻 宝石 

とにかく、ありとあらゆることが書かれている。この大部のローマ時代の百科事典のどこに、前の記事で書いた、仏教徒の伝道師たちが彼の時代よりずっと前に死海の畔に住み着いていたということが書かれているのか、見つけ出すのは大変だが、下手をしたら時間を忘れて読み耽ってしまいそう。

今読んでいたところには、インドから帰還したアレクサンドロスの兵士たちがインドの海中の木について伝えた箇所。水中では葉が緑色だったのに、引き上げて日光に当てるとすぐに乾燥して塩になってしまうものとは、何だろう? アレクサンドロスの兵士たちは好奇心いっぱいで、ありとあらゆるものに目を留め、それらを伝えたようだ。

昨日『レンヌ=ル=シャトーの謎』の著者3人のうちの2人の著者による『死海文書の謎』(マイケル・ベイジェント&リチャード・リー共著、高尾利数訳、柏書房)を買った。まだパラパラとめくってみた段階だが、この中にはブラヴァツキー夫人を通した世間への神智学の影響についても書かれている。

ブラヴァツキー夫人の影響そのままというより(彼女の論文は博学すぎて直接の影響を受けることは案外難しい。彼女の論文を読みもしないであれこれ神智学のことをいう部外者がいるが、大抵デタラメ)、やや空想寄りの神智学者の影響であるようだ。

神智学者といえる人でさえ、ブラヴァツキー夫人の論文を正しく反映させえた人は殆どいないように感じられてからは、わたしはブラヴァツキー夫人以外の神智学者の著作が読めなくなってしまった。神智学協会は完全な民主主義制をとっていて、会長も選挙で決まり(わたしにも選挙用紙が来た)、一人一人が自己責任において独立した研究者の立場なのだ。

話が横道にそれた。この『死海…』を読み終えたらまた考えが変わるかもしれないが、死海文書とエッセネ派が結びつけられているようで、もしそうなら、やっぱりそうかと思わざるをえない。

死海文書の出現を待たなくても、イエスと同時代に生きていたヨセフスの『ユダヤ古代誌』『ユダヤ戦記』を読めば、イエスがエッセネ派のような団体を背景にしていることは明らかで、イエスはそこで得たものを生かして説教したり、新しい団体作りをしたのではないかと想像できるからだ。

あまりに似ているのだ。

これは『死海…』を読み終えず、あの時代の知識も乏しいわたしの単なる想像にすぎないが、エッセネ派で秘密の教えとされたものの一部をイエスは大衆に伝えようとしたのではないだろうか。だから、「神の国は近づいた」のだ。イエスのその動機としては、ユダヤ人が置かれた当時の状況の過酷さだ。

そして、本当に高度な秘密の教えはそれを受ける資格のあるマグダラのマリアだけに伝えた……そのことがペテロの嫉妬を買った。わたしには、グノーシス文書『マリアによる福音書』からはそう読める。

そしてもし、ブラヴァツキー夫人のリサーチの結果が正しかったとしたらだが、エッセネ派はピタゴラス派といってよいくらいの集団で、また「熱烈な伝道者アショカ王以来の」仏教の影響が考えられる(ここで、中世の異端カタリ派が西欧の仏教徒と呼ばれることを思い出しておきたい)。そもそも、ピタゴラスからしてインドの影響がいわれている。

東西の思想的分裂は、キリスト教というよりパウロ教の御伽噺があらわれるまではなかったのかもしれない。少なくとも、今のような形では。

しかし、ブラヴァツキー夫人のいう……エッセネ派のピタゴラス色は、仏教徒の伝道師たちによって思想体系が完成されるというより、むしろ崩れていった、というのは何を意味するのだろう? プリニウスによると、仏教徒の伝道師たちは彼の時代(プリニウスは23 -75 年頃)よりずっと前に死海の畔に住み着いていたそうだ。

しかもブラヴァツキー夫人は、イエスは厳密にはエッセネ派とはいえないという。イエスの実像は『コーザル・ナザレウス』の中のグノーシス派のキリスト教哲学者バルデサネス派の不当な非難の中に見い出せるかもしれないという言葉は、謎のように響くが、要するにイエスは改革者だったということだろう。

確かに、新約聖書には、急進的に見えるところもある。エルサレムに着いたイエスの神殿でのちょっと粗暴といえるような振る舞いなど読むと。

プリニウスの『博物誌』を、夫が図書館から借りてきてくれるそうだ。

昨日書店で娘が京都大学学術出版会のパンフレット「西洋古典叢書」を手に取り、「これ、もらっといたら?」といった。

おお、ブラヴァツキー夫人が引用していたポリュビオス『歴史』が入っている。それに、今取り組んでいるテーマとは関係ないが、神智学徒としてはピロストラトス『テュアナのアポロニオス伝』は、どうしてもほしいなあ。図書館検索でなければ、娘にこの『アポロニオス伝』買って貰おうかしら。誕生日の贈り物を保留しているので。娘が買ってくれるといっているアクセサリーよりは安いし。3,885円。百年文庫と今回の『死海…』の出費で、手が出ないから。まあ、図書館検索が先だ。

児童文学作品『不思議な接着剤』を書いているうちに、イエスの時代について自分で自覚した以上のお勉強になったみたいで、このあたりのことを書いたブラヴァツキー夫人の『アイシス…』がすらすら読めるのは嬉しい!(勿論、奇特な会員のかたが邦訳してくださっているものを)

昨夜、久々に『神智学の鍵』を紐解いてみたが、以前集中して読んだときには、テーマの背景となっている思想史については、ぼんやりとしかわからなかった。昨夜はそれが、まあ理解度はともかく、本が生きているみたいに感じられる悦びがあった。

ヨセフスの『ユダヤ古代誌』は目から鱗だった。購入してよかった(しみじみ)。何しろヨセフスはイエスと同時代のユダヤ人で、ローマに投降した。イエスが説教に回った辺りも彼の行動範囲内だった。

ブラヴァツキー夫人はイエスの時代を分析するのに、このヨセフス、プリニウス『博物誌』に結構頼っている。

女巨人ですらそうなんだ! 何たる喜悦。プリニウスの『博物誌』、図書館にあるかしら。ざっとでも、目を通さなくてはならない。そうしたら、女巨人にまた一歩近づける。

旧約聖書、カバラの知識は必要だが、旧約はともかく、カバラはわたしには難しくてちんぷんかんぷんだ。カバラには相当にいろんなもの……多彩な古代思想のエッセンスといってよいから、いつか、しっかり取り組む必要はあるけれど。

ギリシア悲劇は大学時代に読んでいてよかった。イエスの時代を知るには、バッカス、オルフェウスの宗教なども知っておく必要があったわけだ。ムード的なものを捉えるのに役立つ。

ブラヴァツキー夫人のリサーチによれば、ナザレ派もナザールたち(預言者たち)も、反バッカス階級を成していたという。思想史は流れている川のようなものであることを忘れ、バッカスやオルフェウスの信仰といったものはギリシアのあの時代だけのことのようについ思ってしまう。グノーシスだって、いきなり出てくるはずがないのに、2、3世紀頃に突然変異的に出て来たように思ってしまう(アカデミックな世界は案外そんなことをいうが)。

ざっと見ただけでも、この時代を鳥瞰するのにブラヴァツキー夫人は資料として、前掲のヨセフス『古代誌』、プリニウス『博物誌』、ユダヤ教の聖典『タルムード』、イギリスの神学者ライトフットの著書、『創世記』、『士師記』、プロティノスの弟子ポルピュリオス『ピタゴラス伝』、『エズラ記』、ゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』、アーリア民族の『ヴェーダ』、『民数記』、『出エジプト記』、『ミカ書』、『詩篇』、『セプトゥラギンタ(七十人訳聖書)』、『マタイ伝』、グノーシス派のキリスト教哲学者バルデサネスを創始者とする一派であるバルデサネス派の著書『コーデス・ナザレウス』、『ホセア書』、『ヨハネ伝』、『民数記』、『ルカ伝』、カトリック教会の学僧でラテン語聖書の完成者である聖ジェローム『ソード』、ブレラーの著書、ダンラップ『ソード・密儀等』、ヨセフス『ユダヤ戦記』、、『使徒行伝』、『ヨハネの黙示緑』、ポルビュオス『歴史』、『列王紀上下』、ジェローム『書簡集』、キング『グノーシス派』、ムンク『パレスチナ』……

が、これ以上の深入りは時間を食い過ぎる。今のわたしの頭脳じゃ、女巨人の足跡をほんの少し辿るだけで精一杯(それだけでも嬉しい)。ほどほどにして作品を進めよう。

児童文学作品『不思議な接着剤』と微妙な関連性をもたせるために、『すみれ色の帽子』に瞳が秋芳洞を訪ねるお話を考えていた。

時期としては、紘平が夜見た夢という結末になる以後のことで、この時点で瞳に異世界での冒険の記憶は失われている。

しかし、名残はあるのだ。彼女は洞窟内の部屋のようになった空間で我知らず、マリーの面影を探し求める。「わたしはこの黄金柱と呼ばれる壮麗な柱のある部屋に、美しい貴婦人を置いてみたい気がしました」と瞳は綴る。

マリーというのは、わたしの『不思議な接着剤』に登場する囚われの女性で、『マリアによる福音書』『ピスティス・ソフィア』などのエッセンスを造形化した女性(という試み)。それら哲学的なグノーシス文献に頻繁に登場するのはマグダラのマリアだから、マリーという名にしたのだった。

また瞳は、灯りを浴びて、緑色に輝く竜のように見える巨大な岩を見ると、竜の背中をなでるところを想像してしまうが、『不思議な接着剤』の中で、実際に彼女は緑色のオーラを発する本物の竜をなでたのだった。竜の苔の色を反映していたかのような緑色のオーラは、終局部では美麗な真珠色となり、太古の動物はついに神獣として目覚めるのだ。

マグダラのマリアのことを考え、グノーシス派についてもっと知りたいと思い、また竜が古代何をシンボライズしたものだったかを考え出すと、やはり頼りになるのはブラヴァツキーの文献しかない。

そして、調べただけのことはあった。

蛇と竜に関する象徴的な意味は夥しく存在するが、『不思議な接着剤』の竜に適切な意味を見い出して紙のノートに写した。

その意味との関連から『不思議な接着剤』の中で、竜がなついていた老人がどんな存在であったかも、はっきりさせることができた。


ところで、『ダ・ヴィンチ・コード』の商業的ヒットによる影響は大きいが、グノーシス文書におけるマグダラのマリアがフェミニズム的関心を集めたことなどもあって、一般的なブームともなり、グノーシス文書はようやく日の目を見たような感じを受ける。


それまでは、翻訳書に頼るしかないわたしは一般のものとしては、ユング系の精神分析学との関連で触れられたものしか知らなかった。

グノーシス主義に対するアカデミックな関心は、エレーヌ・ペイゲルスの研究発表が行われた1972年から高まったようだから、アカデミックな世界においてさえ、グノーシス文書にまともな地位が与えられたのは比較的最近のことといってよい出来事だ。


しかし、神秘主義の世界ではグノーシス派の文書は、ずっと昔から正当な地位を与えられてきた。ブラヴァツキー夫人は、「アレクサンドリアのグノーシス派の記録」について、それが秘伝の秘密を十分に明かしたものだと述べる。

ブラヴァツキー夫人は「キリスト教の最初の二、三世紀に書かれた『ピスティス・ソフィア』」からの引用を散りばめているが、彼女が引用できるグノーシス派の文献は乏しかっただろう。その頃はまだナグ・ハマディ文書は素焼きの壷の中で熟睡していたし、『マリアによる福音書』(ベルリン写本)も1896年に認定は受けたものの公刊は遅れ、1955年になってやっとというくらいだから。

だが、ブラヴァツキー夫人の言葉やグノーシス文書におけるマグダラのマリアの扱われかたから見て、マリアはやはりイエスから、公にされたものとは異なる秘密の教えを受けたのではないかと想像できる。その秘められた内容がグノーシス文書として残されたとしても不自然なことではない。


ブラヴァツキー夫人は1831年に生まれ、1891年に没しているが、それまで秘教とされてきた東西における諸哲学の集大成であり、精緻な研究書でもある『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(田中恵美子 ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成元年)の中で、次のようにいっている。

コンスタンティヌス時代は歴史の転換期であった。つまり、西洋が古い宗教を絞め殺し、その死体の上に築かれた新しい宗教を支持することに終わった最大の斗争の時代であった。その時から、後世の者達が大洪水やエデンの園よりもっとさかのぼって、太古を覗くことは、公正、不公正なあらゆる手段をつくして、強制的に容赦なく禁じられはじめたのである。あらゆる発行物は妨げられ、手に入れることができる記録はすべて破り棄てられた。だがこのようなずたずたにされた記録の中にさえ、源となる教えが実際にあるということを示すに足る証拠が残っている。いくつかの断片が、その物語を語るための地質的、政治的な大変動に耐えて生き残って来たのである。そして生き残った断片はみな、今の秘密の智慧が、かつては唯一の源泉、絶えることなく流れ出る永遠の源泉であり、そこから流れ出る小川、つまりあらゆる国民の後世の宗教の最初のものから最終のものまですべてに水を与えるもとの泉であることを示している。仏陀とピタゴラスにはじまり、新プラトン派とグノーシス派に終わるこの時代は、頑迷と狂信の黒雲によって曇らされることなく、過ぎ去った幾時代もの昔から流れ出た輝かしい光線が最後に集まって現れた、歴史の中に残された唯一の焦点である。

3日7日。

イエスの時代に存在したとされるナザレ派やエッセネ派にかんするブラヴァツキーの論文を読んだ。

ユダヤ教の聖典は、イスラエル人の間で行われた別個の崇拝、宗教を示しているという指摘は興味深い。当たり前なことであるといえるのに、なぜかわたしは単一のものと考える癖がついてしまっている。

また、ナザレ派、エッセネ派、エビオン派など、後に異端とされたこれらをグノーシスと切り離して考える癖がついてしまっている。これらとは別の派に属する治療家たちもいた。こうした宗派の教えは多かれ少なかれカバラ(ユダヤ教の秘教)に基づいていた……

それがどんなものであったかを、語源を探り、資料を駆使して次々とヴェールを剥がしていく。出典が一つ一つ記され、なぜそう考えられるかという根拠についても一つ一つ書かれている。だから疑問が生じる場合は、確認作業を行うことが可能なはずだ。

『ダ・ヴィンチ・コード』の作者が参考にした『レンヌ=ル=シャトーの謎』はよく調査されていると思われ、興奮したが、ブラヴァツキーの調査は(昔の人なのに)もっと徹底していて、灯台もと暗しだったと呆れる。

いや、イエスの時代のことが相当に書かれていることはわかっていたのだが、前に読んだとき、わたしには基礎知識すらなく、何が何だかわからなかったのだ。

『レンヌ…』を読んだあとでは、ずいぶんわかりやすくなった。『レンヌ…』がブラヴァツキーの『アイシス…』のこの章の入門書の役目を果たしてくれるとは。

『レンヌ…』でエッセネ派がピュタゴラス的な思想を取り入れたことについて触れてあると、ブラヴァツキーの『アイシス…』では、エッセネ派はピュタゴラス派だったと書かれ、さらにいろいろと書かれていて、勿論出典が記されているという具合に。

ナザレ派を作ったと伝えられている改革者イエスが厳密にはエッセネ派だったとはいえないし、どの宗派に属していたかを特定するのは不可能に近いとさしものブラヴァツキー夫人も音を上げているのだが。

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