創作ノート - 不思議な接着剤

執筆中の児童小説「不思議な接着剤」のためのノートです。 リンク、転載を禁じます。

2010年11月

ジョナサン・コット
新潮社
2007-11-21


オンム・セティについて詳しく解説する余裕のないままだが、とりあえず以下にメモしておきたい。

オンム・セティが自殺した古代エジプトの巫女だったことは、当人の自覚通り、おそらく間違いないところだろう。

前世の彼女は、セティ1世時代の巫女で、セティ1世と愛し合ったために自殺に追い込まれたという。

彼女は巫女だった頃の記憶と物質化して現れたセティ1世の幽霊から教わったことによって、考古学界に少なからぬ貢献をした。

そのことは否定できない。ただわたしをやりきれない気持ちにさせたのは、彼女のあくまで前世という過去に執着してそこにのみ生きたがる傾向と、セティ1世との関わりかただった。

セティ1世といえば、軍人王ラムセス1世の子で、エジプトの歴代王の中でも名君の一人に数えられているファラオであり、建築王ラムセス2世の父だ。この頃は、多神教の伝統を廃し、アテン神を唯一神とするアマルナ改革を起こしたアクエンアテンのこともまだ記憶に新しかっただろう(この改革にモーセが何らかの形で関係があるのかないのか?)。

セティ1世はオンム・セティに、物質化の技術を神殿で教わったと語る。

古代エジプトの叡智が、恋人たちをカーマ・ローカすなわち黄泉、幽界の意識レベルに留めることにしか役立たなかったのだとしたら、その叡智はあまりにも虚しい、無意味な、むしろ有害なものにすぎなくなる。

しかしこれはオンム・セティの独演にすぎない可能性もある。彼女が霊媒だった場合だ(この場合、転生者としての記憶のあるなしは関係がない)。

彼女はセティ1世の魂の抜け殻を、彼の魂と思いこんでいるのではないだろうか?

その根拠としては、彼女のもとに現れるセティ1世が、ただひたすらカーマ・ローカをさまよっている無能力者に見えるということだ。

霊媒は魂の殻を惹きつけて、自分に都合のよい存在に仕立て上げる。殻であっても、魂の名残と幾ばくかの記憶を留めているものなのだ。

神智学的にいうと、オンム・セティは霊媒で、セティ1世の魂の抜け殻をカーマ・ローカからこの世に引っ張り下ろした。いわゆる降霊術の類で、こうした自然法則を妨げる無知な行いは、死者にとっても霊媒当人にとっても有害な行為であるといわれている。 

同じ物質化に見えても、スリ・ユクテスワァの特別な場合と比較してみると、この二つが別物であることがわかる。以下の記事を参照。
2009年12月19日
№34 ペトロとパウロについての私的疑問 ①『マリヤによる福音書』についての私的考察
何にしても、アクエンアテンとクフ王についてオンム・セティが語った箇所は興味深い。前掲書より抜き書きしておきたい。

ブラヴァツキー『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ)の用語解説より引いておきたい用語⇒カーマ・ローカ。物質化。

ジョナサン・コット
新潮社
2007-11-21

作品の資料として読み始めたヨセフス『ユダヤ古代誌』に出てくるモーセは、何だかアメリカの大統領みたいだ。

異端カタリ派→グノーシス→原始キリスト教→マグダラのマリア→ヨセフスによるエッセネ派(カバラの起源?)の記述と彼の著書における同時期に存在したはずのイエスの存在感のなさ→モーセ

……と辿り、モーセをエジプトに訪ねたところで、わたしの読書は、上の異様な内容の本を読んでしまったがためにこけたのだった。

再度そこからだ。図書館から借りた本だったので、生憎今手元にその本はないのだが、なぜこけたかをざっとでも検証しておきたい。児童文学作品『不思議な接着剤』を進めながら。

深夜ぽっかり目を覚まして、これを書いている(現在4時過ぎ)。

昨日、スロヴァキア放送交響楽団を聴きに行ったときはなんといっても、前日に聴いたイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の完璧でありながら自然で優しい、至福の響きがまだ余韻として残っていた。

メータ指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の古いプログラムを探し出してみると、前回わたしが聴いたのは1991年12月5日福岡サンパレス・ホールだったことがわかった。わたしはそのとき、33歳だったはずだ。

そのときからほぼ20年、本物のヴァイオリンの音とはあの彼らが奏でる音のことだと思い続けてきた。再聴した今もその確信にゆらぎはないどころか、一段と確信は深まった。

すばらしいのは勿論ヴァイオリンだけではない。『田園』を奏でる管楽器の音が鳥の囀りにしか聴こえなかった……そんな響きなのだ。また打楽器の美しさ。

初めて聴いた娘は「あんなに綺麗なヴァイオリンの音は初めて聴いたよ。澄んだ水みたいな音だった。一人一人のクオリティーがおそろしく高いね」と繰り返した。

パンフレットには「イスラエル・フィルは結成当時以来の伝統である、優秀なユダヤ系音楽家の奏でる響きで、いまやウィーン・フィルやベルリン・フィルの弦楽セレクションの響きをしのぐ、“世界一の弦”と称せられるほど、艶やかで独特の濃密な色彩感をそなえている」と書かれているが、わたしは下手なオーケストラを聴いたあとでウィーン・フィルを聴き直すことがよくある。彼らの響きは一流で、狂いや乱れがなく、完璧だからだ。

しかし如何に完璧であろうと、無機的なウィーン・フィルやベルリン・フィルの響きに感動したことは一度もない。なまを聴けば違うのだろうか。

乳とはちみつの流れる小川のような響きだと今回わたしは思ったイスラエル・フィルを聴いたあとだった不運に加え、2005年にはプラハ国立歌劇場の格調高いオペラ『アイーダ』に惚れ惚れした記憶もあったのだ。

チェコスロバキア共和国は、1993年にチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離した。いうまでもなく、プラハ国立歌劇場はチェコを代表する歌劇団だ。

プログラムによると、スロヴァキア放送交響楽団は「放送を通じて広く国民に音楽を楽しんでもらうことを目的として」1929年に誕生した。1949年にコンサート専門のオーケストラ、スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団が誕生して、そちらに一部の楽員を持っていかれたり、常任指揮者に関しても紆余曲折あったようだ。

つまり金返せとはいわないまでも、スロヴァキア放送交響楽団の演奏は、わたしはつまらなかった(それでもなおN響よりはましだった。N響はあんなんでいいのか?)。

のそっと響いてきてぼやーと煙る管楽器の音。テキトーに叩いているとしか思えない打楽器。トライアングルの響きがあんなに脳天気に聴こえた珍妙な『新世界』をわたしは生涯決して忘れないだろう。

ヴァイオリンは聴かせどころは一生懸命練習していると見え、熱の入ったよい演奏だった。しかし、興味を惹かれない部分もむらなく練習に励んで貰いたいものだ。

そんな練習光景すら、演奏から透けて見えてくるありさまではあった。娘はしきりに「若いメンバーが多いみたいだから……」といってなぜかフォローしていた。

イスラエル・フィルには1人として必要でない弾き手は存在しないと感じさせる意識と技術の高さがあり、また彼らが演奏すると、作曲家は楽譜に1個たりとも無駄におたまじょくしを置いたりはしていないと思わされるが、スロヴァキア放送交響楽団で聴いていると、1人2人メンバーがいなかったり増えたりしたってどうってことはないんじゃないかと想えてくるし、おたまじょくしもテキトーに置かれたりしたのかしらんと感じられてくるのだった……ナンタルチア!

イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団とロシア・ナショナル管弦楽団は、どちらをとればよいかわからないくらいわたしの好きなオーケストラだ。

イスラエル・フィルの手にかかると、元々好きなベートーヴェン『田園』ばかりか、乙女の生贄の儀式なんぞを描いた調子っぱずれ(?)のストラヴィンスキー『春の祭典』までもが、最後まで聴かされてしまう。すごい迫力だった。それでいて、もの優しい響きだった。彼らの演奏はなぜあんなに優しいのだろう。

ところで、わたしが現在執筆している児童文学作品『不思議な接着剤』のヒロインはマグダラのマリアだ。正確にいえば、『マリアによる福音書』をシンボライズした女性だ。

インド人指揮者ズービン・メータに率いられたイスラエル・フィルの完璧でありながら自然で豊かな演奏は、作品を進める上での励ましにも、参考にもなるものだった。行けてよかった。作品は時間がかかっても完成させたい。

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