創作ノート - 不思議な接着剤

執筆中の児童小説「不思議な接着剤」のためのノートです。 リンク、転載を禁じます。

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 遅い年賀書きが終わって、わたしにもようやく年が明けた。

 昨年は薬剤性肝炎騒動(その伴奏となったのが忌まわしい湿疹。もう治らないかとすら思いました)で、わたしにとってはひじょうに不快な年であり、形となった作品は零に等しい不作な年だったが、今では湿疹はほとんど治って、不作だった畑はよく耕されているではないか!

 誰が耕したかというと、驚いたことに、このわたし。これで新しい年に対して希望が湧かないなんて人は、化石になった原人だけだろう。なぜハイになっているのかというと、それは長編児童文学作品のための創作ノート「Notes:不思議な接着剤」を読んでいたから。我ながら、よく耕したものだと会心の笑みがこぼれた。

 ところで、写真は、娘が昨年の大掃除中に見つけた小さなぬいぐるみで、娘は真っ黒に汚れていたそれを洗い、室内物干しに洗濯バサミで吊り下げていた。娘がいうには、息子が小さかったときに大事にしていたぬいぐるみだそうだが……変な服を来ている……まさか、わたしが作ってやったなんてことは……息子が作った? わけはない。どうも、最初から着せられていたもののようだ。

よく見ると、恐竜のぬいぐるみだったので、わたしが貰うことに。『不思議な接着剤』のマスコットにしよう。

№40 を読むと、異端審問の中には当初から魔女裁判、魔女狩りの要素が含まれていたことがわかる。

それは、簡略してはならないものが簡略化された手続きの中に潜んでいるのだ。

未来の日本から来た子供のうちの大きな子たち、紘平と瞳は、裁判制度の違いと共通点について話し合う。

紘平は、ボケた祖父に訴えられて理不尽な民事裁判に関わった話を、母親が開いている算数教室で働いている助手の江崎から聴いていた(※ここには嫌でもわたしの体験が反映されよう)。

子供たちは、2つの裁判には共通点があると思う。一方は正統派キリスト教的真理を保護するために、他方は資本主義下における民主主義的人権保護のために、裁判が動いている。

被告にとって迷惑なことには、一方では手続きの簡略化、他方では裁判官の怠慢があった。

どちらも、裁判官に大きすぎる権限の与えられているところに共通点がある。

日本の場合、特定の刑事裁判への市民の参加で、大きすぎる権限の抑えられる効果が期待できるのかもしれない。

「建て前は、あきらかに違っているんだけれどなあ。今のわたしたちの国では疑わしきは罰せず、でしょ。ここでは、疑わしきは罰する、よ」と瞳。

ジョナサン・コット
新潮社
2007-11-21


オンム・セティについて詳しく解説する余裕のないままだが、とりあえず以下にメモしておきたい。

オンム・セティが自殺した古代エジプトの巫女だったことは、当人の自覚通り、おそらく間違いないところだろう。

前世の彼女は、セティ1世時代の巫女で、セティ1世と愛し合ったために自殺に追い込まれたという。

彼女は巫女だった頃の記憶と物質化して現れたセティ1世の幽霊から教わったことによって、考古学界に少なからぬ貢献をした。

そのことは否定できない。ただわたしをやりきれない気持ちにさせたのは、彼女のあくまで前世という過去に執着してそこにのみ生きたがる傾向と、セティ1世との関わりかただった。

セティ1世といえば、軍人王ラムセス1世の子で、エジプトの歴代王の中でも名君の一人に数えられているファラオであり、建築王ラムセス2世の父だ。この頃は、多神教の伝統を廃し、アテン神を唯一神とするアマルナ改革を起こしたアクエンアテンのこともまだ記憶に新しかっただろう(この改革にモーセが何らかの形で関係があるのかないのか?)。

セティ1世はオンム・セティに、物質化の技術を神殿で教わったと語る。

古代エジプトの叡智が、恋人たちをカーマ・ローカすなわち黄泉、幽界の意識レベルに留めることにしか役立たなかったのだとしたら、その叡智はあまりにも虚しい、無意味な、むしろ有害なものにすぎなくなる。

しかしこれはオンム・セティの独演にすぎない可能性もある。彼女が霊媒だった場合だ(この場合、転生者としての記憶のあるなしは関係がない)。

彼女はセティ1世の魂の抜け殻を、彼の魂と思いこんでいるのではないだろうか?

その根拠としては、彼女のもとに現れるセティ1世が、ただひたすらカーマ・ローカをさまよっている無能力者に見えるということだ。

霊媒は魂の殻を惹きつけて、自分に都合のよい存在に仕立て上げる。殻であっても、魂の名残と幾ばくかの記憶を留めているものなのだ。

神智学的にいうと、オンム・セティは霊媒で、セティ1世の魂の抜け殻をカーマ・ローカからこの世に引っ張り下ろした。いわゆる降霊術の類で、こうした自然法則を妨げる無知な行いは、死者にとっても霊媒当人にとっても有害な行為であるといわれている。 

同じ物質化に見えても、スリ・ユクテスワァの特別な場合と比較してみると、この二つが別物であることがわかる。以下の記事を参照。
2009年12月19日
№34 ペトロとパウロについての私的疑問 ①『マリヤによる福音書』についての私的考察
何にしても、アクエンアテンとクフ王についてオンム・セティが語った箇所は興味深い。前掲書より抜き書きしておきたい。

ブラヴァツキー『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ)の用語解説より引いておきたい用語⇒カーマ・ローカ。物質化。

ジョナサン・コット
新潮社
2007-11-21

作品の資料として読み始めたヨセフス『ユダヤ古代誌』に出てくるモーセは、何だかアメリカの大統領みたいだ。

異端カタリ派→グノーシス→原始キリスト教→マグダラのマリア→ヨセフスによるエッセネ派(カバラの起源?)の記述と彼の著書における同時期に存在したはずのイエスの存在感のなさ→モーセ

……と辿り、モーセをエジプトに訪ねたところで、わたしの読書は、上の異様な内容の本を読んでしまったがためにこけたのだった。

再度そこからだ。図書館から借りた本だったので、生憎今手元にその本はないのだが、なぜこけたかをざっとでも検証しておきたい。児童文学作品『不思議な接着剤』を進めながら。

深夜ぽっかり目を覚まして、これを書いている(現在4時過ぎ)。

昨日、スロヴァキア放送交響楽団を聴きに行ったときはなんといっても、前日に聴いたイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の完璧でありながら自然で優しい、至福の響きがまだ余韻として残っていた。

メータ指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の古いプログラムを探し出してみると、前回わたしが聴いたのは1991年12月5日福岡サンパレス・ホールだったことがわかった。わたしはそのとき、33歳だったはずだ。

そのときからほぼ20年、本物のヴァイオリンの音とはあの彼らが奏でる音のことだと思い続けてきた。再聴した今もその確信にゆらぎはないどころか、一段と確信は深まった。

すばらしいのは勿論ヴァイオリンだけではない。『田園』を奏でる管楽器の音が鳥の囀りにしか聴こえなかった……そんな響きなのだ。また打楽器の美しさ。

初めて聴いた娘は「あんなに綺麗なヴァイオリンの音は初めて聴いたよ。澄んだ水みたいな音だった。一人一人のクオリティーがおそろしく高いね」と繰り返した。

パンフレットには「イスラエル・フィルは結成当時以来の伝統である、優秀なユダヤ系音楽家の奏でる響きで、いまやウィーン・フィルやベルリン・フィルの弦楽セレクションの響きをしのぐ、“世界一の弦”と称せられるほど、艶やかで独特の濃密な色彩感をそなえている」と書かれているが、わたしは下手なオーケストラを聴いたあとでウィーン・フィルを聴き直すことがよくある。彼らの響きは一流で、狂いや乱れがなく、完璧だからだ。

しかし如何に完璧であろうと、無機的なウィーン・フィルやベルリン・フィルの響きに感動したことは一度もない。なまを聴けば違うのだろうか。

乳とはちみつの流れる小川のような響きだと今回わたしは思ったイスラエル・フィルを聴いたあとだった不運に加え、2005年にはプラハ国立歌劇場の格調高いオペラ『アイーダ』に惚れ惚れした記憶もあったのだ。

チェコスロバキア共和国は、1993年にチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離した。いうまでもなく、プラハ国立歌劇場はチェコを代表する歌劇団だ。

プログラムによると、スロヴァキア放送交響楽団は「放送を通じて広く国民に音楽を楽しんでもらうことを目的として」1929年に誕生した。1949年にコンサート専門のオーケストラ、スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団が誕生して、そちらに一部の楽員を持っていかれたり、常任指揮者に関しても紆余曲折あったようだ。

つまり金返せとはいわないまでも、スロヴァキア放送交響楽団の演奏は、わたしはつまらなかった(それでもなおN響よりはましだった。N響はあんなんでいいのか?)。

のそっと響いてきてぼやーと煙る管楽器の音。テキトーに叩いているとしか思えない打楽器。トライアングルの響きがあんなに脳天気に聴こえた珍妙な『新世界』をわたしは生涯決して忘れないだろう。

ヴァイオリンは聴かせどころは一生懸命練習していると見え、熱の入ったよい演奏だった。しかし、興味を惹かれない部分もむらなく練習に励んで貰いたいものだ。

そんな練習光景すら、演奏から透けて見えてくるありさまではあった。娘はしきりに「若いメンバーが多いみたいだから……」といってなぜかフォローしていた。

イスラエル・フィルには1人として必要でない弾き手は存在しないと感じさせる意識と技術の高さがあり、また彼らが演奏すると、作曲家は楽譜に1個たりとも無駄におたまじょくしを置いたりはしていないと思わされるが、スロヴァキア放送交響楽団で聴いていると、1人2人メンバーがいなかったり増えたりしたってどうってことはないんじゃないかと想えてくるし、おたまじょくしもテキトーに置かれたりしたのかしらんと感じられてくるのだった……ナンタルチア!

イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団とロシア・ナショナル管弦楽団は、どちらをとればよいかわからないくらいわたしの好きなオーケストラだ。

イスラエル・フィルの手にかかると、元々好きなベートーヴェン『田園』ばかりか、乙女の生贄の儀式なんぞを描いた調子っぱずれ(?)のストラヴィンスキー『春の祭典』までもが、最後まで聴かされてしまう。すごい迫力だった。それでいて、もの優しい響きだった。彼らの演奏はなぜあんなに優しいのだろう。

ところで、わたしが現在執筆している児童文学作品『不思議な接着剤』のヒロインはマグダラのマリアだ。正確にいえば、『マリアによる福音書』をシンボライズした女性だ。

インド人指揮者ズービン・メータに率いられたイスラエル・フィルの完璧でありながら自然で豊かな演奏は、作品を進める上での励ましにも、参考にもなるものだった。行けてよかった。作品は時間がかかっても完成させたい。

表情、服装、動作を細かに描くようにしている。例えば、冒険前に出てくる以下の瞳に関する描写。

 あのことを話すとしたら、瞳とふたりきりでここにいる今だ――と、紘平は思いました。
 
 そして、紘平は、思ったことを実行しました。

 不思議な接着剤、すなわち、アルケミーボンド株式会社製品の超化学反応系接着剤クッツケールがひき起こした事件の一切合切を、瞳に話したのでした。

 瞳は、竹ぐしとパレットナイフをもちいて、ケーキを型からとり出す作業をすすめながら、しずかに話を聞いていました。

 ですが、翔太に起こったこといえ、弟に自分が仕出かしたあやまちを紘平が話したとき、瞳は身をふるわせて作業をやめました。

「ねえ、紘平くん。それって、夢とか、ゲンカクとかじゃないの? わたし、信じられない」
 瞳は、賢そうな目をすずしげに見開いて、それ以上、紘平が話し続けることを拒否しました。

「夢でも、ゲンカクでもないんだ」
 といい、紘平はちょっと言葉につまりました。
「嘘だと思うのなら、翔太を泣かせてみればいい」

 瞳の顔が、かげりました。
「夢でも、ゲンカクでも、嘘でもないってわけだ」
 と、かのじょは男の子のようにきっぱりといいました。

 そのあとで、思いやり深く、ささやきました。
「泣くときの翔太くんの口にくっついたのが、音大生のピアノの音色でよかったわね。わたしの下手なピアノの音色だったりしたら、もっと大変だったわ」

以下は、瞳が冒険の扉(倉庫のドア)を開けたときの描写。

 瞳が、笑っていいました。
「なんだか、きんちょうするわね」

 かのじょは、体操教室に着ていく赤のウインドブレーカーの下で、おしゃれをしていました。

 こい青色のカボチャパンツに、うす紫色をした7分そでのティーシャツを着て、その上から、ふんわりとした、うす桃色のキャミソールチュニックを着ていました。ポニーテールにした髪には、カボチャパンツと同じ、こい青色のリボンがむすばれていました。
 
 兄弟に向かって、うなずいてみせると、瞳は倉庫のドアのかぎを開けました。そして、なかに入る前に、身をのり出すようにして左腕をのばし、ドア近くの壁にある電灯のスイッチを入れました。

優れた児童文学作品を読むと、わたしの描写には余分なものがあるけれど、足りていないものがあると痛感させられる。余分といえば、さすがに瞳のTシャツがアナ スイの総ロゴプリントTシャツとまでは描かなかったが。

あとで削ったり、つけ加えたりの集中作業が必要となるだろう。

アストリッド・リンドグレーン
岩波書店
2010-07-15

ところで、リンドグレーン『おもしろ荘の子どもたち』(石井登志子訳、岩波少年文庫、2010年)の描写で、小冒険に出かける前のマディケンを描いた秀逸な場面がある。マディケンは夕方、家を抜け出すために妹が寝てしまうのを、じりじりしながら待っている。以下に抜粋。

夕方、気持ちのいいベッドにはいり、おかあさんがおふとんをかけてくれて、窓の外では白樺の木々のなかで小鳥がやさしくうたっているようなときは、自然に、「心やさしく」なってしまいます。
 けれどこの日の夕方、マディケンは、「心やさしく」どころではありませんでした。この日はいつもとはちがいます。これからしようとしていることを考えると、身ぶるいするのですが、じつのところは、きらいなふるえではないのです。マディケンには冒険ずきなところがあって、この緊張がたまらなくいいのです。いまでは、すっかりニルソンさんの洗濯小屋へいって、自分に天眼通があるかどうかをたしかめる気になっています。それはまるで、歯医者さんにいこうかどうか迷ったあげく、いくことを決めたときのようなものでした。歯医者さんへいく決心というのが、マディケンにとっては、いままででいちばんおそろしい決心だったのです。決めてしまうと、そんなにこわくないのと同じでした。今夜もアッベといっしょだからできそうです。マディケンはずいぶん長いことベッドにもぐっているような気がしました。おとうさんもおかあさんも、とっくにおやすみなさいをいって下へおりています。いまはただ、リサベットが眠るのをまっているだけです。このことはリサベットにもしられてはならないひみつですから。
「もう、寝た?」マディケンは聞いてみました。
「まだだってわかるでしょ。マディケンは?」
「まあ、なんてぐずなの。」
 マディケンはしばらく音をたてずに、息をひそめていました。そして声をかけました。
「もう寝た? リサベット。」
「そんなにうまくいかないわ。マディケンは?」とリサベットはうれしそうです。まったくなんて子かしら。マディケンはもういらいらしてきました。
「夜どおしおきているつもり?」
「じぇったいそうする。」
 けれど、それから何分もたたないうちに、リサベットはくるりとうつぶせになって、寝息をたてていました。

よくありそうな出来事ではあるが、それを物語にとり込むところまでは、なかなか思いつかない。冒険に出かける前の子供の迷いのある心情と、出かけることを決めてからのワクワク、ハラハラ、ドキドキがよく伝わってくるではないか。ちなみに、天眼通という馴染みのない邦訳語が出てくるが、これは幽霊が見える霊媒能力のこと。

メアリー・ノートン『空とぶベッドと魔法のほうき』(猪熊葉子訳、岩波少年文庫、2000年)にも、大冒険前の子どもたちを描いたすばらしいやりとりがある。


以下に抜粋。魔法のベッドで出かける予定の子供たちは、夕食を運んできたお手伝いのエリザベスが出ていってくれるのをじりじりして待っている。魔法のベットのノブをまわしてベッドを動かせるのは一番下の子供ポールだけという物語の設定。

それから、エリザベスは遠ざかっていきました。するとみんなはスリッパをぬぎすてて、おどりだしました。音をたてず、むちゅうになって息をひそめ、ぐるぐるまわったかと思うと、とびはね、とうとう息ぎれがしてきたみんなは、ポールのベッドの上にどさんとたおれました。
 「ねえ、まずどこへいく?」ケアリイはささやきました。ケアリイの目は、きらきらひかっていました。
 「南の島にいってみようよ。」チャールズがいいました。
 ポールは、パンをあんぐりほおばりました。あごはゆっくりうごいていました。ポールは、三人のなかでいちばん冷静でした。

ロッキー山脈、南極、ピラミッド見物、チベット、月……と興奮する上の2人の子供たちをよそに、ポールは自然博物館の大ノミを見たいという。風邪で寝ている間に、自分ひとりをおいてきぼりにして、彼らがおじさんと一緒に博物館に行ったことをポールはよく覚えていたのだった。他の場所を提案されたポールは、おかあさんに会いに行くといってきかない。夏休みに彼らはおばさんのところに預けられていたのだった。

上の2人の子供たちは、弟を説得して他の場所を選ばせようとするが、ポールは頑としてきかない。

 ポールの顔はまっかになり、なみだがほおをころがり落ちました。
 「おかあさんか、大ノミかどっちかだよう。」
 ポールは、がまんして泣き声をもらすまいとしていました。口はしっかりとじていましたが、胸が上下にはげしくゆれていました。
 「やれやれだな。」ケアリイは、やけになったようにいうと、つまさきを見つめました。
 「いいじゃないか、ポールの好きにさせようよ。」チャールズがしんぼう強い声でいいました。
 「ぼくたち、あとでほかのところへいけばいいんだから……。」
 「でも、チャールズ……」ケアリイはいいかけましたが、気をかえて、「まあ、いいでしょう。」といいました。「みんな、ちゃんと手すりにつかまって、毛布はたくしこんどいたほうがいいわよ。さあポール、ノブをつかんで……そうっとよ。ほら、はなをかんであげるわ。さあ、用意はいい?」

最終的にポールの気持ちに添う、姉と兄らしいケアリイとチャールズの決心は、カッコいい。冒険に入るまでの障害がちゃんと描かれるのが優れた児童文学作品の特徴の一つだ。わたしの子供たちには、わりとあっさり、そこのところを通過させてしまったけれど。

芸術に属する児童文学作品とはかくも描写が詳細、丁寧なのだ。書き写しているとよくわかるが、これは純文学にもいえることで、優れた作品の多くが精緻な生きた描写を特徴としている。何でもないようなこと、よくありそうなことを描くというのは、簡単そうで、実はそうではない。作家として、芸術家として、自覚的に生活しているのでなければ、到底出てこない描写なのだ。

冒険だけが突出した舞台となっていて、そこから興奮をもたらすことが主要目的である嗜好品のようなファンタジー物に対して、芸術に属する児童文学作品における冒険は登場人物の生活と切り離されてはおらず、読者は登場人物と一体化しながらも、彼らを内から外から客観的に見つめる力を与えられ、冒険を楽しみながらもその冒険の質を吟味する力を与えられる。

そういえば、リンドグレーン『はるかな国の兄弟』(大塚勇三訳、岩波少年文庫、2001年)と最近岩波少年文庫でリクエスト復刊されたリチャード・チャーチ『地下の洞窟の冒険』(大塚勇三訳、岩波少年文庫、1996年)に、洞窟に潜入する子どもたちを描いた場面がある。前者では一部分、後者ではそれが物語の主要部分となっている。

リチャード・チャーチ
岩波書店
1996-05-15

どちらも鍾乳洞ではなく、コンディションの悪い洞窟で、危険が大きい。やわなわたしの子どもたちには合わない場所だ。

リンドグレーンの洞窟の描写にはさすがだと思わされはするが、ただし、それは頭の中で作り出されたことを感じさせる大ざっぱさがある(彼女の細かさからすると、だ)。チャーチの洞窟はそれ自体が冒険の目的となっていて、洞窟の性格の違い、冒険のさせ方の違いからあまり参考にならないが、著名な児童文学作家の洞窟の描き方がどちらもそれほど参考にならないということが逆にありがたく、励ましになる。

わたししか書いたことのないものが書けるのだ!
 
むしろ近さを感じるのは同じく復刊されたバジョーフの銅山を描いた名作『石の花』(佐野朝子訳、岩波少年文庫、1981年)だ。

パーヴェル・バジョーフ
岩波書店
1981-09-24

わたしは秋芳洞で、人工光を受けて緑色に輝く巨石から恐竜を連想し、またオーラを連想した。

『石の花』には、銅山の女王の君臨する石でできた森が出てきて、そこに存在するもののなかで一際印象的なのが、光を発する黄金色の蛇だ。これも石でできている。この蛇の光が何から来たものなのかはわからないが、わたしの描く巨石は同時に生きた竜でもあって、オーラの光を発散するのだ。『石の花』に出て来る光とはおそらく性質が違うものだ。

ここでもまた、わたしにしか描けないものを描くのだという意気込みが生まれる。

オーラを見たことのない人間に、オーラの描写はできない。わたしはいつもオーラを見ているわけではないが、オーラがどんなものかはよくわかっている。これはわたしがおそらく前世で獲得した能力で、この能力の特徴は、今生でそれを獲得しなおさなければならないということだ。それがひどく苦しかった。重態の母の枕許でのあの体験が必要だった。もしあのとき再獲得できていなかったとしたら、わたしは一生を忘れ物をしたような苛立ちのうちに過ごし、いささか不本意な一生を終えることになったに違いない。

せっかく再び身につけた能力なのだから、それを創作の仕事に生かしたい。

世間には嘘臭いオーラの描写が沢山ある。とはいえ、わたしには嘘と決めつけることはできない。わたしの見ているものとは違う層の、オーラの外皮のようなものを見ているのかもしれないから。ジョージ・マクドナルドの作品には、わたしのいう意味合いでのオーラを見ていた人特有の何かがある。

『あけぼの―邪馬台国物語―』では神秘主義小説を書きたいと思い、卑弥呼のオーラを描写した。必要な取材ができず、中断する結果となったが……。

子どもたちは冒険に出てしまったが、わたしには彼らが出会うはずの洞窟に囚われた女性マリーの顔が、すなわちマグダラのマリア(精確にいえば、『マリアによる福音書』をシンボライズした女性)の顔がまだ見えて来ない。遂に見えなかったとしたら、この熱を入れている作品は完全な失敗作に終わるだろう。

アテン(太陽神)を唯一神として崇拝し、アマルナ改革を断行したファラオ、アメンホテプ4世の影響をモーセが受けた(逆にモーセがアメンホテプ4世に影響をもたらしたとする説もある)のかどうかは、わたしが調べた限りでははっきりとしたことはいえないように思えるにしても、これだけはいえよう。

モーセが独自の宗教観を育んだのはエジプトにおいてであったと。エジプト王家に育ったモーセがエジプトの宗教の影響を受けていないなどとは考えられない。

これは単なるわたしの推測にすぎないが、モーセはエジプトの宗教の呪術的側面に嫌気がさしていたのではないか?

エジプトの宗教の呪術性は単純なアニミズムとは懸け離れた、高度な科学性を秘めたものとも想像され、それは未だに謎だ。いずれにしても、それに対して、モーセはそこからの離脱とオーガニックコットンの肌触りのようなシンプルライフを志向した。

そのことはモーセの十戒を見てもわかる。以下はフラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌 1』(秦剛平訳、ちくま学芸文庫、1999年)より。

十戒の要約
 第一の言葉は、神がただ一つであり、その神だけを崇拝せよ、という教えである。
 第二は、いかなる生き物の像もつくってはならず、それに跪拝してもならぬ、という戒めである。
 第三は、どのようなつまらぬことでも、神の名によって誓ってはならぬ。
 第四は、七日目ごとに、いっさいの仕事をやめて休息をとれ。
 第五は、両親を敬え。
 第六は、人を殺してはならぬ。
 第七は、姦淫をしてはならぬ。
 第八は、盗みを働いてはならぬ。
 第九は、偽証をしてはならぬ。
 そして第一〇の言葉は、他人の所有物をむやみにほしがってはならぬ、という教えである。

「神がただ一つ」というのは他にも神々が存在するということの裏返しであり、「神の名によって誓ってはならぬ」というのは、呪術性の裏返しだ。最も実効を持つマントラム――呪文――が神の名だからだ。

シンプルライフを提唱して人間性の回復に努めたのが、モーセではなかったろうか。

しかし、多すぎる神々と呪術から人間性を解放したはずの律法が今度は、時代を経るごとに、人間性を抑圧する道具へと化してしまった。律法学者に対するイエスの警告からもわかるように、イエスの時代には律法学者の数が増え、形式主義が蔓延っていた。

イエスは複雑化し硬直化した律法から最も大事なものとして愛の律法を掬い上げ、それを中心としたシンプルな法体系を新たに確立しようとした。彼もまたシンプルライフの提唱者だったわけだ。

モーセについて、もう一つ考えられることは、当時のエジプト社会に対する批判精神であって、その社会体制を否定するとしたら、その社会で核として機能していたエジプトの宗教を否定しないわけにはいかなかっただろう。モーセの理想に叶う新しい宗教が必要だった。

モーセは神に選ばれたが、それ以前にモーセが彼の理想に叶う神を欲したのだ。いずれにしても、モーセは拾われて王家に育ちながら、当時のエジプトの宗教に批判的だった。もしモーセを選んだ神がモーセの理想に叶った存在でなかったとすれば、モーセのように精神的に強靭な男が、エジプトの神々に対して異議を唱えたのと同様、その神を否定しなかったなどとは考えられない。

モーセは熟していたのだ。理想に合致した神から選ばれるという幸運な結婚にも似たこの出来事を神秘主義的観点から考察すると、モーセの神はモーセの内的光の具象化と見ることもできる。

パウロの場合は彼の意思に反してイエスの選択が一方的に行われたのであって、ひじょうに強制的だ。パウロは青い実だった。まるで処女が犯されたかのような召命のされかたではないか。

神秘主義的観点から考察すると、この現象は霊媒現象と見わけがつかない。パウロに対するわたしの疑問は、彼の召命の段階から早くもピークに達する。――それは本当にイエスだったのだろうか? 

ここで一神教についてウィキペディアによくまとめられているので以下に抜粋しておきたい。

唯一神教. (2010, 9月 9). Wikipedia, . Retrieved 23:26, 10月 1, 2010 from https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%94%AF%E4%B8%80%E7%A5%9E%E6%95%99&oldid=33914247.

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

唯一神教(ゆいいつしんきょう、monotheism) は、神は唯一であるとし、その唯一なる神を崇める信仰、宗教の形態である。複数の神を認め、崇拝する多神教とは対極的な概念である。アブラハムの宗教と呼ばれる一神教であるユダヤ教とそれを起源とするキリスト教、イスラム教や、ネオプラトニズムに支配的な概念とされている。

同じ一神教でも拝一神教や単一神教が他の神々の存在を認めた上で一つの神を崇めるのに対し、唯一神教においては他の宗教の神々の解釈が問題になる。一つの対応は、そのような神々は人間が想像したもので、実際には存在せず、何の意味も持たないというものである。もう一つは、神的な存在はあり、人間よりも力がある不死の存在だが、人間と同様に心や力に限界を持つというものである。そういう存在は、自らを神と称して人々に崇拝を強いることで、重大な罪を犯していると説明される。最後に神の絶対性と自宗教の絶対性を区別し、宗教多元主義への道を開く思想である。この場合他宗教と自宗教は共に1つの神を信奉しており、違いは単なる伝統に過ぎないとなる。これに付随して多神教と一神教の区分も、神という存在に対する観点の違いであり、必ずしも相互に理解不可能ではないという思想が生まれる。(神は1つでもあり、多数でもある。)

古代エジプトで紀元前14世紀に成立したアテン信仰が世界でもっとも古い唯一神教といわれ、ユダヤ教はこのアテン信仰と、一神崇拝のゾロアスター教からの影響を強く受けて成立した、という意見もある[誰?]。

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冒険に出かける子供たちのライトについて。紘平はヘッドライト。瞳はランタン型ライト。翔太は980円のストラップ型のライトを瞳のリボンで首にぶらげることにしていたが、訪問者のお一人から安いネックライトがあることを教わった。

ネックライトに変更するとなると、電器店に行ってみなくてはならないので、それまではとりあえずストラップ型のライトを瞳の白いリボンでつけさせることにしよう。なぜライトにここまで神経質になるのかというと、秋芳洞の印象からだ。

要所でライトが控え、洞内は贅沢なまでのライトに照らし出されていたが、それでもなお暗かった。子供たちが入っていくのは、手つかずの状態に置かれた漆黒の闇が支配する鍾乳洞なのだ。マリーが囚われている場所に辿り着くまでは、竜が放つオーラをあかりとする以外、自分たちの携帯したライトだけで、子供たちはやっていかなくてはならない。

涼しくなると、とたんに創作にエンジンがかかる。ようやく、最低限、この児童文学作品に必要なだけの体力が集まったという感じだ。

ちょうど、創作帳とは別に、頭に浮かんだことを何でも書き殴る『ほぼ日ペーパーズ』の新しいものを下ろした日と重なり、新鮮な気分。

だが、今日はストーリーをどんどん先へ進めるというわけにはいかなかった。細かな部分が気になり、その調べものに結構時間が費えてしまった。せっかちな操作で何度かパソコンが固まってしまったくらい、気が急いた。

子供たちが白ネコに誘われて向かう先は、マグダラのマリア、フランス語にするとマリー・マドレーヌがモデルである乙女が囚われた場所。正確にいえば、『マリアによる福音書』をイメージ化した女性ということになる。

『マリアによる福音書』には、東西の思想を一つにする鍵があるとわたしは考えている。

子供たちは鍾乳洞の部屋のようになった場所でおやつにするために、お菓子の箱を持って行くのだが、そのお菓子の詰め合わせの中にマドレーヌを潜ませておこうと思う。マドレーヌの賞味期限は1週間から2ヶ月とばらつきがある。

お菓子と瞳が持って行く綺麗なロウソクは、子供たちが文明圏から来たことの証明となるものだから、味が落ちたり、腐ったりしていてほしくない(わたしの好きなアンリ・シャンパンティエのは14日)。子供たちが中世風の世界に何日いることになるのか、まだはっきりさせていないが、当初予定していたよりも長い滞在となりそう。

翔太が携帯するライトのことでも迷った。ストラップ型のライトを瞳のリボンで首にぶらげるくらいなら、ネックライトにしたらいいではないかと思ったのだったが、人気のパナソニックのLED防滴ネックライトは2,270円(税込)で、翔太が小遣いで買うには高すぎる気がした。わたし、このネックライトほしい。優れものだそうだ。

ネックライトはメーカーにこだわらなければ、安いものもあるそうです。よくお気遣いくださる訪問者のお一人から教わりました。いつも、ありがとう

『ゾロアスター教』について読むとわかるが、遊牧民族が犠牲式を行うのは、食べるためだ。

わたしたちは、自分の知らないところで屠殺された動物を平気で食べている。

インド人とイラン人が分かれる前の原インド・イラン語族は、屠殺という行為を神的な行為にまで 高めなければ、生き物が殺せなかった。食べることなど、できなかった。

古代、世界中が神々に地のめぐみを供物として捧げてきた。分業が進んでいなかった時代に機能していた敬虔さ、正常な感覚だろう。

戦争。次いで、人間同士殺し合う行為を犠牲式にする宗教行為が現われた。

図式的にわかりやすいのはキリスト教だが(イエスは屠られた仔羊以外の何ものでもなかろう)、世界中で――わが日本でも――神に戦死者を捧げる儀式が執り行われるようになる。

しかし現代。戦争すら分業となり、代替戦争や後方支援などで殺人行為に無感覚な人間がつくり出され、平気で他国人を殺して資源などの地のめぐみを奪ってそれを享受しながら、無垢な人間の如く、平和を声高に訴えたりしている。

ゾロアスターの宇宙創成論は、先史時代――青銅器文化の時代――の人間が考えついたとはとても思えない高度さだ。

ブラヴァツキー夫人のいう、古代には人類の教師役を務める神的な存在(自然現象を神格化した神々とは違う。人間のOBとしての神的存在)が人間たちの間を歩いていたというようなことでも想定しなければ、歴史的な位置づけの仕様がないではないか。

ゾロアスターの教えにある最後の審判(大復活のあとに行われる)について、メモしておかなければ。

ゾロアスター教 三五〇〇年の歴史 (講談社学術文庫)
メアリー・ボイス (著), 山本 由美子 (翻訳)
ISBN-10 : 406291980X
ISBN-13 : 978-4062919807
出版社 : 講談社 (2010/2/10)

といっても長すぎるので結論のみ、以下にメアリー・ボイス『ゾロアスター教 三五○○年の歴史』(山本由美子訳、講談社学術文庫、2010年)から。

 ゾロアスターはこのように、個々の審判、天国と地獄、肉体のよみがえり、最後の大審判、最結合された魂と肉体の永遠の生ということを、初めて説いた人であった。これらの教義は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に採り入れられて、人類の宗教の多くにおいてなじみのある項目となった。しかし、これらのことが、充分に論理的一貫性をもっているのは、ゾロアスター教においてだけである。
 というのは、ゾロアスターは、肉体を含む物質的な創造が善であることと、神の正義の揺るぎない公平さとを合わせて主張したからである。彼によれば、個人の救済は、その人の考えや行動の総量によるもので、いかなる神も、同情や悪意によってこれを変えるよう介入することはできない。そのような教義の上に、「審判の日」があると信じることは、充分に畏怖すべき意義をもち、各人は自分の魂の運命について責任をとるだけでなく、世界の運命についての責任も分かたなければならないとされた。ゾロアスターの福音は、このように高尚で努力を要するものであり、受け入れようとする人々に、勇気と覚悟を要求するものであった。

昨日は文体の研究と訂正をした(途中)。

ヨセフスの描写する、モーセがテーブルに置いた12個のパンは、どうしたってイエスの12使徒を連想させる。

預言に自身の行動を重ねようとするイエスは後世の脚色なのか、イエス独自のものなのか。

フロイトの説で興味があるのは、モーセの創始した宗教と古代エジプト唯一の一神教であったアテン信仰を結びつけた点だが、彼の主張はそれだけではない。

ジークムント・フロイト『新訳 モーセと一神教』(渡辺哲夫、日本エディタースクール出版部、1998年)を読んでいると、何かしらユダヤ人フロイトの鬼気迫る追究が伝わってくるようだ。

ところで、モーセの神を火山神とする説がある。

消されたファラオ―エジプト・ミステリーツアー
グレアム フィリップス (著), Graham Phillips (原著), 匝瑳 玲子 (翻訳)
ISBN-10 : 4022573406
ISBN-13 : 978-4022573407
出版社 : 朝日新聞社 (1999/2/1)

グレアム・フィリップス『消されたファラオ』(匝瑳玲子訳、朝日新聞社、1999年)によると、モーセたちのエジプト脱出の頃――紀元前14世紀前半――に活火山テラの噴火が発生した可能性があるという。

確かに、エジプト人に起きたあの災厄は火山噴火の被害を連想させる。

「アテン信仰の唐突な興隆とエジプト脱出を巡る災厄は、どちらもテラの噴火が原因だった」可能性を著者は述べる。

モーセの謎を追究することは、イエスとマグダラのマリアの運命を透視しようとすることでもある。

この関連の読書を続けながら、今日は文体の訂正を終え、子供たちが――フクイティタンをモデルとした――竜の光(オーラ)を見る場面まで、ラフ・スケッチでいいから済ませてしまいたい。

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