創作ノート - 不思議な接着剤

執筆中の児童小説「不思議な接着剤」のためのノートです。 リンク、転載を禁じます。

昨日「カタリ派がヨハネ福音書を偏愛する理由がブラヴァツキー夫人の著作から解けた!」という派手なタイトルをつけた記事を公開したが、勘違いがあったので、非公開とした。

が、別の重大な発見(見落としというべきか)があり、記事にしておきたい。

新約聖書関係で、ヨハネは3人いる。バプテスマのヨハネ、使徒のヨハネ、福音記者のヨハネである。

バプテスマのヨハネと福音記者のヨハネを混同して読んでいたために、タイトルのような結論を出して舞い上がっていた。

ただ、ちゃんとした記事を書くためにじっくり読んでいくと、自分の勘違いにも気づいたが、重大なことがイエスに関して書かれた箇所に目が留まった。

話を戻せば、福音記者ヨハネと使徒ヨハネを同一人物とする説があるのだが、ブラヴァツキー夫人はH・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』(竜王文庫、2010)の中で、「『ヨハネによる福音者』The Gospel according to Johnを書いた匿名のグノーシス主義者Gnostic」(ブラヴァツキー,老松,2010)という風に書いている。

匿名のグノーシス主義者。

『ヨハネによる福音書』は共観福音書と呼ばれる他の三福音書とは内容が異なり、それについてもブラヴァツキーは書いている。

『ヨハネ福音書』がグノーシス的とは一般にもいわれているところで、カタリ派がグノーシス的であったことから考えると、カタリ派が『ヨハネ福音書』を愛した理由もわかる気がするのだが、偏愛したほどの理由が結局のところわたしにはわからない。

初期キリスト教が存在した時代、あのあたり――ガリラヤ――は人種の坩堝で、人々は偶像崇拝に夢中だった。『Isis Unveild』にはその様子が目に見えるように書かれ、猥雑な儀式を行うバッカス崇拝がどんなものだったかなど、よく分析されている。

様々な資料から引用された複雑な記述の中から1本の流れを辿るのは骨が折れることだが、遠いあの時代に直に触れるような不思議な感覚をもたらされる歓びがある。

ナザレ派の改革者イエス――とブラヴァツキー夫人は呼び、イエスがエッセネ派に属していたことは間違いないが、厳密にはエッセネ派とはいえないと書く。

エッセネ派は油を汚れとみなし、清らかな水しか使わなかったが、イエスは油を使ったことからも「厳密」にはそういえないことがわかるという。ヨセフス『ユダヤ戦記』2巻8章3節……とここまで細かく典拠が示されているにも拘わらず、典拠も示さずに荒唐無稽な文章を書く人々は荒唐無稽だとブラヴァツキー夫人を非難する。

イエスは油を使ったことからも、イエスが「厳密」にはエッセネ派とはいえないことがわかると彼女はいうのである。

ここで引用が正しいかどうか調べてみた。幸い『ユダヤ戦記』は持っている。ヨセフス『ユダヤ戦記』2巻8章3節は、わたしが持っている邦訳版ではフラティウス・ヨセフス(秦剛平訳)『ユダヤ戦記 Ⅰ』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2002)に収録されている。

あった。確かに、2巻8章3節。「彼らは油を汚染させるものと見なし、もし人がうっかりしてかけられた場合、それを体から拭き落とさねばならない。というのも、彼らは肌を乾いた状態にさせており、そのためつねに白い衣をまとっているからである」(ヨセフス,秦,2002,p.277)

イエスが属したとされるエッセネ派について、ブラヴァツキー夫人は驚くほど様々なことを書いており、エッセネ派が死海のほとりに何千年にもわたって暮らしていたユダヤ人の一派で、グノーシス派であり、ピタゴラス派、ヘルメス学的集団、あるいは初期キリスト教徒であっという。彼らは仏教の伝道師たちの影響を受けたが、思想体系はむしろ崩れていった……

エッセネ派という集団は様々な思想的影響を受けながら、何千年もの歴史を生き抜いていたわけである。

パブテスマのヨハネの弟子たちは、意見の相違によりエッセネ派から分かれた分派だった。

当時のことに可能な限り言及され、分析は各派の起源へと遡り、そうするとエジプト、カルデア、インドが登場してくることになる。

今ほどあのころの古文書が発掘されていず、ネットもない時代に書かれたとはとても思えないほど、存在した資料をぎりぎりまで使えるだけ使って解説され、まるで最新の研究を読むかのようだ。

イエスの実像をブラヴァツキー夫人はグノーシス派のバルデサネス派の不当な(と彼女は書く)非難の中に見出している。偽のメシア、古代の宗教の破壊者で、仏教の信奉者であるという非難の中に。

グノーシス派に関するブラヴァツキーの記述は夥しい。グノーシス派といっても、ノート99で書いたように複雑である。

2016年02月11日
№99 キリスト教成立以前に東西に広く拡散していた仏教
https://etude-madeleine.blog.jp/archives/83940968.html

バルデサネス派に偽のメシア、古代の宗教の破壊者で、仏教の信奉者であるという不当な非難を浴びせられた宗派の一つにイエスは属しており、そのうちのどれであったかの特定は不可能に近いが、イエスが釈迦牟尼仏の哲学を説いたことは自ずと明らかであるとブラヴァツキー夫人は書く。

ここまではっきり断言するとなると、ブラヴァツキー夫人がキリスト教から叩かれるのも当然だ。仏教の教えを説くイエス……。今でこそ、ブラヴァツキー夫人のいったようなことがいわれ出したのだが。

しかし、もしこれが本当なら、正統キリスト教を主張したカタリ派が「西欧の仏教」といわれ、グノーシス福音文書中の白眉『マリアによる福音書』でマリアがイエスから教わったといって話し始めるその内容が驚くほど仏教的であったことの謎も解ける。

前述したパブテスマについても詳細な分析があり、そこからパウロの使徒行伝が重要な部分で改竄された可能性に触れている。

わたしはパウロが苦手だったが、改竄されているとなると、別のパウロ像が現れる可能性が高く、興味が湧く。

以下の本はおすすめだが、Amazonでは中古しかないようだ。図書館には置いてあるところも多いのではないだろうか。

マグダラのマリアによる福音書 イエスと最高の女性使徒
カレン・L・キング(著), 山形 孝夫(翻訳), 新免 貢(翻訳)
出版社: 河出書房新社 (2006/12/16)

ナグ・ハマディ写本―初期キリスト教の正統と異端
エレーヌ ペイゲルス(著), 荒井 献(翻訳), 湯本 和子(翻訳)
出版社: 白水社; 新装版 (1996/06)

以下のサイトで『マグダラのマリアの福音書』がオリジナルな邦訳で紹介されている。

叡智の禁書図書館<情報と書評>
マグダラのマリアの福音書(訳)
http://library666.seesaa.net/article/29804099.html

ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ (講談社学術文庫)
荒井 献 (著)
出版社: 講談社 (2015/11/11)

図書館から借りた『ユダとは誰か』をユダ像が正典とされる四福音書において、どのように変遷したかを読んだ。

荒井氏によると(112-113頁)、

  • マルコ福音書では、ユダがイエスに「引き渡す」代償として「銀貨を与えることを約束した」といわれているだけ。
  • マタイ福音書になると、ユダは「引き渡す」ための代償を祭司長たちに要求し、彼らはユダに「銀貨三十枚」を支払った。
  • ルカ福音書では、ユダは祭司長だけでなく、神殿守護長官たちとイエスを「引き渡す」方法を協議。彼らはユダに「銀貨を与えることで一致し」、ユダは「同意」した。
  • ルカ福音書とヨハネ福音書では、ユダがイエスを「裏切った」原因として、「サタンがユダに入った」。ヨハネではユダが直接「悪魔」と名指されている。
  • ヨハネ福音書ではユダが金銭欲のゆえイエスを裏切ったことがマタイ福音書、ルカ福音書で「ユダの裏切り場面」で示唆されているが、ヨハネ福音書になると、ユダは「盗人」であり、イエス集団の金庫番でありながら、その中身を「くすねていた」。

こうした正典におけるユダ像がどのように変遷していくのか、荒井氏は「使徒教父文書」「新約聖書外典」を手がかりに見出していこうとしている。

わたしの読書は「使徒教父文書」「新約聖書外典」の定義を読んだところで止まった。夕飯作りのため中断した。

荒井氏によると(114-115頁)、「正典」から除外された諸文書にも、それを読むことを必ずしも禁じられていない文書と禁じられている文書とがあり、前者にはとりわけ「外典行法」、後者には正統的教会から「異端」として排除された「グノーシス」出自の諸文書が入る。

荒井氏はまた(91頁)、ヨハネ福音書は2世紀以降、初期カトリシズムが成立する過程で、正統的教会よりもむしろグノーシス派などの「異端」的分派の中で広く読まれたと前述している。

グノーシスは定義しづらいらしく、様々な研究書で定義にばらつきがあって、ひじょうにわかりにくいが、ウィキペディアの解説は参考になる。

グノーシス主義(グノーシスしゅぎ、独: Gnostizismus、英: Gnosticism)またはグノーシス(古希: Γνῶσις、ラテン文字転写:Gnosis)は、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つである。物質と霊の二元論に特徴がある。普通名詞としてのグノーシスは古代ギリシア語で認識・知識を意味する言葉であり、グノーシス主義は自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向を有する。

またグノーシス主義は、地中海世界を中心とするもの以外にイランやメソポタミアに本拠を置くものがあり、ヘレニズムによる東西文化の異教#シンクレティズムのなかから生まれてきたものとも云える。代表的なグノーシス主義宗教はマニ教であるが、マニ教の場合は紀元15世紀まで中国で存続したことが確認されている。
ウィキペディアの執筆者. “グノーシス主義”. ウィキペディア日本語版. 2016-01-02. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9&oldid=58096269, (参照 2016-02-09).

ブラヴァツキーの著作にはグノーシスに関する事柄が豊富に出てくるので(詳しい複雑な解説の中で逆にまとまりがつかなくなったりもするが)、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、昭和62年初版、平成7年改版)、H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』(竜王文庫、平成22年)、H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 下』(竜王文庫、平成27年)、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(神智学協会ニッポン・ロッジ、平成元年)を読んでいた。

H・P・ブラヴァツキー『神智学の鍵』の用語解説には次のように書かれている。

グノーシス(Gnosis,希)

 文字道りには「知識」。西暦1世紀及びそれ以前の宗教哲学派によって用いられた専門用語で、その探究の対象を表した。霊的で神聖な知識をヒンズー教徒はグプタ・ヴィディヤーというが、これは霊的秘儀のイニシエーションを受けた時のみ得られるものである。儀式的秘儀は霊的秘儀の一種である。グノーシスを体系化し、教えたグノーシス派の哲学者達は1~3世紀に栄えたが、そのうちヴァレンティヌス、パシリデス、マルキオン、魔術師シモンなどが著名である。

H・P・ブラヴァツキー『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』に「グノーシス派,あるいは初期キリスト教徒が,新しい名称に変わった古いエッセネ派の信徒にほかならなかったことを考えに入れれば」とあるところからすると、初期キリスト教徒はエッセネ派から出た人々で、エッセネ派はグノーシス派に属した(そのころは当然ながらまだ「正典とされる」四福音書はなかった)。

このことは過去記事でも書いたが、確かにフラウィウス・ヨセフスが記述するエッセネ派の習慣はキリスト教徒の習慣にそっくりである。H・P・ブラヴァツキー『イシス 科学上』にはそのエッセネ派についての詳しい解説がある。『イシス 科学上』ベールの前でXXXViii-XXXViX頁。

エッセネ派ESSENESとは「癒やし手」を意味するAsaiに由来する。「プリニウスPlinyによればユダヤ人の一派で,彼らは死海の近くに何千年にもわたって暮らしていた」「たくさんの仏教的観念と修行があった」「初期教会で用いられた『兄弟[同胞]』なる呼称は,エッセネ派的なものだった。彼らは一つの友愛団体であり,かの初期改宗者たちに似たコイノビオンKoinobion,すなわち共同体だったのである」

確かエッセネ派はピタゴラス派だったはずである。つまり仏教の影響を受けたピタゴラス派がエッセネ派の正体(?)で、初期キリスト教徒はそうした人々であった。

となると、グノーシスはキリスト教の前に存在し、キリスト教形成期にも、そして東方的にはグノーシス主義宗教であるマニ教が紀元15世紀まで存在したのである。

11世紀から13世紀にかけて南フランスで栄えたカタリ派は「西欧の仏教」と呼ばれ、彼らはヨハネ福音書を尊重した。カタリ派は明らかにグノーシス的である。

わたしはこのカタリ派こそ、初期キリスト教の流れを汲む一派だったと考えている。

カタリ派について、渡邉昌美『異端者の群れ―カタリ派とアルビジョア十字軍』(八坂書房、2008年)には次のように書かれている(124頁)。

カタリ派を外来の宗教と見たり、少なくとも思想的に西欧に異質な存在だと見る。だからこそ最終的に正統信仰に取って代わることができなかったのだと解釈する見解は今日でもけっして少なくはない。しかし、カタリ派異端者自身が「始祖マニ」の記憶をまったくもっていないどころか、使徒の時代、原始教会への回帰の熱烈な意志をもっていたことは他の異端者とまったく同じだし、他に対して信仰の正統性を主張するときにはやはり使徒からの相伝をよりどころとしていたのである。

『ピスティス・ソフィア』はグノーシス派の文書であるが、H・P・ブラヴァツキー『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』スタンザⅴ367頁の註41には大事なことが書かれている。


グノーシス派では“キリストス”はイエスという意味ではなく、非個人的原理即ち宇宙のアートマン及び各人の魂の中のアートマンという意味をもつものである。だが英国博物館にある古いコプト語の原稿では、ほとんどの場合、“キリストス”は“イエス”に取りかえられてしまっている。

プラトンはピタゴラスの熱烈な弟子だったとブラヴァツキーはいう(『イシス 科学上』の「イシスのベール」10頁)。ピタゴラスはエジプトの秘儀司祭たちから宇宙論的な数の理論を教わった(『イシス 科学上』の「イシスのベール」8頁)。ピタゴラスはインドで、あるいはインドに行ったことのある人たちから知識を得ていた(『イシス 科学上』の「イシスのベール」11頁)。

「古代インドの難解な諸体系の最良の要約になっている,かのプラトン哲学」「前キリスト教時代のこの最も偉大な哲学者は,著作のなかに,自身の何千年も前に生きていたヴェーダ哲学者たちの唯心論とその形而上学的な表現を忠実に映し出していた」「プラトンと古代インドの聖人たちには同一の知恵が同じように啓示されていた,と安んじて言える。つまり,この知恵は,時の衝撃のなかを生き延びてきたのだから,神的かつ永遠なるものにほかなるまい」(H・P・ブラヴァツキー『イシス 科学上』ベールの前でXiV頁)

アレクサンドロス大王(紀元前356年7月20日- 紀元前323年6月10日、在位:紀元前336年 - 紀元前323年)の東方遠征やアショーカ王(インドの最初の統一王朝であるマウリヤ朝第3代の王。在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)が仏教布教のためにヘレニズム諸国や東南アジア、中央アジアに僧侶の使節団を送ったことから考えても、仏教はキリスト教成立以前に東西に広く拡散していたのである。

追記:

荒井献『ユダとは誰か』を読了。2世紀ごろ存在していた『ユダの福音書』はグノーシス派出自の福音書の形式と内容を備えているようである。ここではユダは預言が成就するように、イエスを祭司長たちに引き渡す。

グノーシス派に好まれたヨハネ福音書ではユダは直接「悪魔」と名指されているほどで、人間的にも卑しい描かれかたである。『ユダの福音書』のユダとは違う。グノーシス文書にもいろいろあったようだから、こんな対照的なユダ像が出てくるのかとも思うが、この著作を読んだだけではわからない。

以下の過去記事でプロティノスのグノーシス批判を採り上げ、わたしは書いている。


2011年4月 3日 (日)
ヒュパティアが属した新プラトン派
https://elder.tea-nifty.com/blog/2011/04/post-583e.html

プロティノスのグノーシス批判『グノーシス派に対して』[『世界創造者は悪者であり、世界は悪であると主張する人々に対して』]を読みました。
読後感からすると、プロティノスが相手にしたグノーシスの一派はかなり低俗な迷信・霊媒集団だったという印象です。
神秘主義にピンからキリまであるように、グノーシスにもピンからキリまであることがよくわかりました。確かにグノーシスを連想させられる断片は含まれていますが、ここからは『マリアによる福音書』や「ナグ・ハマディ文書」に見られるような格調の高さも、また異端カタリ派に見られる合理精神や知的で清浄さを印象づけられるエピソードに通ずるものも何も感じられません。
ただし、これはプロティノス側から見たものでしかありません。
プロティノスのこの作品は有名なので、後世、これをもってしてグノーシス全般を断ずる向きがあったのかもしれないと思いました。それはグノーシスにとってはあんまりな処遇でしょう。
イエスには奇蹟的なエピソード(いわゆるテウルギーと呼ばれた神わざに属するものでしょう)や病人癒しのエピソードなどがありますが、当時――古代――はそうした技術は神秘家たちによってよく用いられていたようです。そうした技術にもピンからキリまであったようです。神聖なものから有害なものまで。

『ユダの福音書』を通して読んでみないと、何ともいえない。内容的にもさっぱり納得がいかない。

過去記事で紹介した、イエス・キリスト研究に関するニュース記事。このときの研究者は、アメリカのハーバード大学神学部・古代キリスト教史のカレン・L・キング教授だった。

このとき、わたしは記事で以下のように書いている。

イエスは福音書の中でしばしばラビと呼ばれ、ラビは結婚していることが普通であったそうだから、その観点からすれば、イエスが結婚していたとしても何ら不思議なことではない。

イエスの教えのすばらしさを純粋に享受するためには、初期キリスト教の文献が一度、正統派キリスト教の呪縛から完全に解き放たれる必要があると思う。

また、イエスのオリジナルとされてきた言葉にも引用があるのかどうか、引用があるとしたらそれはどこから、どのようになされたのかなどといったことも、人類の思想の歩みを知るためには、今後、研究されていくべきではないだろうか?

今回、「イエス・キリストには妻だけでなく2人の子どももいた」という説を発表した研究者は、カナダ・ヨーク大学のバリー・ウィルソン教授とイスラエル系カナダ人の作家シムカ・ジャコボビッチ氏。

その説を展開した、古代文献を読み解いたという「ロスト・ゴスペル」(失われた福音書)が邦訳されたら、ぜひ読みたいものだ。

キリスト教のご都合主義で、初期キリスト教の沢山の文献からこれは正しい、これは間違っていると非科学的に即断するのは、どう考えても人類の歩みを甚だしく遅滞させている。

本来、初期キリスト教の文献はユダヤ教の文献ともいえるもので、人類の宝といってもよい。特定の利権集団の私有財産ではなく、人類のものであるはず。

当ブログにおける関連カテゴリー:

ライン以下に、ネットニュースからの記事をクリップ。

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Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141113-35056500-cnn-int
CNN.co.jp 11月13日(木)11時21分配信

(CNN) イエス・キリストには妻だけでなく2人の子どももいたという説が、古代文献を読み解いた新著「ロスト・ゴスペル」(失われた福音書)で紹介され、物議をかもしている。

同書はカナダ・ヨーク大学のバリー・ウィルソン教授とイスラエル系カナダ人の作家シムカ・ジャコボビッチ氏が共著で出版。古文書を新たに翻訳した内容について解説している。この文献は1847年から英国図書館が所蔵していたもので、最近になって研究者の注目を浴びた。

キリストに妻がいたという説は以前から指摘され、映画にもなった小説「ダ・ヴィンチ・コード」(2003年)でも有名になった。

しかし今回の文献からは、キリストに妻だけでなく2人の子どもがいたことがうかがわれ、聖書に登場する「マグダラのマリア」が妻だったことも確認されたという。さらに2人の子どもを暗殺しようとする計画もあったとされる。

この説についてキリストの生涯に詳しい米ミドルベリー大学講師のジェイ・ペリニ氏は、キリスト教公認の4つの福音書以外にも、福音書は多数存在すると指摘。「福音書の伝承は豊富で多岐にわたり、興味深い内容に満ちている。キリストについて記された膨大な内容のうち、どれが正しくどれが正しくないのかを正確に知ることはできない」と解説している。

1週間ほどイタリアのローマに出張していた息子が帰宅し、昨晩電話をかけてきた。

最初、娘と1時間半ほど話し、次にわたしとやはり1時間半ほど話した(話したいことを話すと、偶然それくらいの時間になった)。

息子は電話を切るときに今日も仕事といっていたので、休みとばかり思っていたわたしは疲れさせたのではないかと心配になったが、海外に出かけたときは大抵、疲れた様子がない。

普段は会社で遅くまで仕事をし、食事は外食かコンビニ弁当(近くにHotto Mottoなどのお弁当屋さんはない)、休日や有休を使って大学の研究室へ行くときなど――会社と大学の博士課程を掛け持ちしている――はいつも安ホテルに泊まっている息子には、むしろ海外出張のときに泊まる普通のシティホテルやその土地での食事、仕事のスケジュールなどが体に優しいものだからだろう。

息子が出かけたのは会社で行っている仕事の分野における専門家の集まりで、主催者はベルギーの会社。前に行ったオランダでの集まりもそうで、会場はヨーロッパを転々としているらしい。

前回アメリカのサンフランシスコに行ったときは大きな化学会で、そのとき息子はポスター発表をしたといっていた。

今回のローマの集まりでは、英語で30分ほど講演をしたそうだ。

主催者の手違いで、後から送った修正した資料ではなく、修正前のものを渡されたため、用意した講演内容に狂いが生じ、困ったそうだが、強気で押し通したとか。

ナポリの大学から学生が講演を聴きに来ていたという。主催した会社の社長が運動好きで、講演会、長い時間続くパーティー、行きたい人は夜でも行く観光……と出席した人々が例外なく夜更かしをした翌朝、マラソン大会を催した。

息子はとてもつき合いきれないと思い、出なかったそうだが、外人のスタミナには感心したようだ。息子の会社からは4人行ったそうだが、今回は割合に市内を観光をする時間がとれたらしい。

息子は、バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山、サン・ピエトロ大聖堂に圧倒された。何より、天井の高さに圧倒された。どうやって造ったんだろうと思ったよ、としきりにいった。

システィーナ礼拝堂は壮麗だが、観光客がいなければ、教会らしい落ち着いた雰囲気だと思うと息子はいった。ミケランジェロの天井画は落ち着いた色調だったとか。

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ミケランジェロ(1475-1564)「最後の審判」、システィーナ礼拝堂
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あるテレビ番組で、ミケランジェロが足場を組み、仰向けになったまま、顔に滴り落ちてくる絵の具を物ともせず、描いている様子を再現していたわよ、とわたしはいった。

すると、息子は「足場を組むったってさ、物凄い高さなんだよ。見当もつかないな」といった。そういわれてみると、わたしも不思議になってくる。足場を組むだけでも、大変な作業だろう。高所恐怖症にはできない仕事に違いない。

コンビニ間隔で教会があり、そのどれもが凄かったという。ステンドグラスにも圧倒されたようだ。あそこに住んでいたら、嫌でもカトリック教徒にならざるをえないと思うよ、と息子はいった。

そういえば、もう何年も前の話になるが、義父母は義妹母子とドバイからクールーズの旅に出た。ローマにも行き、義父の感想は「寺ばかり」という一言だった。寺とは教会のことだろう。

カトリック教会だらけの国。イタリアの神秘主義者たちは、どう生きていたのだろう?と思ってしまう。

文盲であることが普通だった中世ヨーロッパの民衆には、キリスト教を理解するために絵が必要だった。

しかし、原田武著『異端カタリ派と転生』(人文書院、1992年)によると、北イタリアのロンバルディア地方、南フランスのラングドックで栄えた異端カタリ派は、土地の言葉に翻訳された独自の聖書を持ち、集会のたびに福音書が朗読、解説されたという。

カタリ派には裕福な知識層が多かったというのも頷ける。当時は相当なインテリでなければ、聖書を読むことすらできなかった。ましてや、継承した思想を育み、カトリックに対抗することなど、ひじょうに特異な事態で、そこからカタリ派の独自性と隠れた歴史が透けて見えてくる気がする。

息子の話を聴いていると、『不思議な接着剤1: 冒険前夜』の続きを書くためには、ローマぐらい見ておかなくては、と思ってしまう(まあ無理だけれど)。

トレビの泉は工事中だったそうだ。コロッセオ――円形競技場――は巨大。外から見ただけだそうだが、それだけでもローマ帝国の威容が伝わってきたよ、と息子は心底感嘆したようにいった。如何にも廃墟という感じらしいが……。

カラカラ浴場の遺構も、浴場という現代の概念を超えた壮大なものらしい。それでいて、残った壁画、床のタイルなど見ながら、そこに佇んでいると、どこかしら日本の浴場を連想させる雰囲気があって親しみが湧いたそうだ。ヤマザキマリのお風呂漫画『テルマエ・ロマエ』の着想をなるほど……と思わせるものがあったとか。

街のいたるところに遺跡が転がっているという。遺跡と共存というより、ローマ帝国時代の遺跡を邪魔しないように造られた街――と、息子には映った。遺跡が暮らしの邪魔になっているように見える場所もあったという。

遺跡を見て、息子は天井の高さにつくづく驚いたようで、「ああいったものを造るために、奴隷がずいぶん死んだだろうね」といった。教会でも天井の高さに驚いたようだから、ローマのいにしえの建築物の天井の高さは、よほど印象的なものなのだろう。そうした建築物と一体化した沢山の彫像も凄かったそうで。

遺跡の壁が印象的だったとも息子はいう。あるテレビ番組で、ローマ帝国の優れたコンクリート技術があのような壮大な建築を可能にしたといっていたわよ、とわたしは話した。

ローマを強いて日本に例えれば、雰囲気的には京都というより奈良。都会度は岡山市くらい。そこに教会と遺跡がいたるところにある風景を連想すればいいというが、わたしはうまく想像できなかった。

書店のことを尋ねると、日本のような大型書店は見かけなかった、日本の書店のように本がぎっしりとは置かれていないという印象を受けたようだ。展示品のような感じで、平台に表紙を見せておかれている本が多かったという。アメリカのサンフランシスコで行った書店も、日本のようにぎっしり――という本の置き方ではなかったとか。

食べ物では、パスタがとても美味しかったそうで。コーヒーは特に感動したとかはなく、スーパーで買い物をしたが、ちょっと食べる程度の物は日本の物のほうが好み。

ウェイターはユニーク、一般的な店員は無表情。観光客が多かったが、それを除けば、街中ではオバサンの比率が高い気がした。ドイツ――オランダに行ったときに、フランクフルトにちょっとだけ行った――のオバサンの静的な感じと比較すれば、動的、活動的な感じだったとか。

バイキングで何か取ろうとしたら、陽気なウェイターから「ホー! それとるの? 今日はせっかく新鮮な魚介類が入っているのに」と、英語と身振り手振りで海鮮パスタをすすめられ、それを食べたら、とても美味しかったという。

レストランでジュースを注文しようとしたら、そこでもウェイターから、「え、エスプレッソ?」といわれ、「うんにゃ、わしはジュースじゃ」というと、さらにウェイターが「ん、カプチーノだって?」としつこくアピールしたので、カプチーノにしたのだそうだ。

強引だけれど、愉快な感じで、少しも嫌みなところがなく、ジュースじゃなくて自慢のコーヒーを飲んでほしい!という精神に溢れていたから、それじゃカプチーノにしてみようかなと息子は思ったとか。

フェレロのチョコとパスタをお土産に買ってきてくれたそうだ。

フェレロはイタリア老舗チョコレートブランドで、息子のオランダ土産のフェレロにはメイド・イン・ドイツとあった。今度のはさすがにメイド・イン・イタリーかな。「ガーデン」という銀色の包みのココナッツクリームが香るチョコが忘れられなかったのだけれど、あれ、入っているかしら。

エスプレッソ専用のコーヒー豆を手にとり、お土産に追加を迷ったが、「道具がないと、これ使えないな」と思い、戻したそうで、それは残念。エスプレッソメーカーがうちには2台もあるのに……。その代わり、ホテルの部屋に備え付けられたインスタントコーヒーを数スティック入れてくれたそうだ。

ホテルにあった、そんなちょっとしたものを入れてくれるのは嬉しい。

キンドルストアで、児童小説『不思議な接着剤1: 冒険前夜』を販売中です。

レビュー⇒出版⇒オンラインまで3日くらいはかかっていましたが、KDPに今日のお昼近く提出して、午後8時18分には「提出された本がKin​dleストアで出版さ​れました」とのお知らせメールが届きました。

不思議な接着剤1: 冒険前夜
直塚万季 (著), yomi (表紙絵)
出版社: ノワ出版; 1版 (2014/9/15)
ASIN: B00NLXAD5U


内容紹介
次巻で、中世ヨーロッパへ、時間旅行をすることになる3人の子どもたち。
本巻では、それを可能にしてくれる不思議な接着剤と子どもたちとの出あいをえがきます。
不思議な接着剤「クッツケール」は賢者の石100パーセントの超化学反応系接着剤、発売元はアルケミー化学工業株式会社。
「クッツケール」の背後には時空をこえて商売の手をひろげる企業連合の存在がありますが、この作品ではまだほんのり、すがたを感じさせるていどです。
不思議な接着剤に出あった子どもたちの心の動きを鮮やかにえがき出し、生きることの美しさ、せつなさを訴えかけます。

本文より
{ 瞳は、竹ぐしとパレットナイフを用いて、ケーキを型から取り出す作業を進めながら、しずかに話を聞いていました。
 ですが、翔太に起こったこと――いえ、弟に自分がしでかしたあやまちを紘平が話したとき、瞳は身をふるわせて作業をやめました。
「ねえ、紘平くん。それって、夢とか、ゲンカクとかじゃないの? わたし、しんじられない」
 瞳は、かしこそうな目をすずしげに見開いて、それ以上、紘平が話しつづけることを拒否するかのようでした。}

緑字の部分は、9月19日夜、更新を依頼しました。

もくじ
1 おとうさんの部屋で
2 くっついたピアノ協奏曲
3 どうすればいいのか、わからない
4 青い目のネコ
5 明日は、しあさって
6 冒険へのいざない
あとがき

※本書は縦書き、小学4年以上で習う漢字にルビをふっています。 

サンプルをダウンロードできます。
     ↓

https://www.amazon.co.jp/dp/B00NLXAD5U

わたしは以下の記事で「カタリ派が持ち出したとされる宝については、多額の金銭から聖杯に至るまで諸説あるが、古文書であったと想像したとしてもそうおかしなことではない」と書いた。

カタリ派の転生者としての霊的ヴィジョンが散りばめられたアーサー・ガーダム『二つの世界を生きて――精神科医の心霊的自叙伝』(大野龍一訳、コスモス・ライブラリー、2001年)を信頼するなら、それはカタリ派の起源を原始キリスト教に位置づけることができるような稀覯本と原稿であった可能性がある(253-255頁)。例えば、

  • ラテン語で書かれたコンソラメントゥム(救慰礼)
    これはカタリ派によって認められていた唯一の典礼であり、身体的な病気の者かしんからカタリ派聖職者になりたいと願っている者を対象に執り行われた。
    最後の典礼は1244年3月15日に執り行われた(カタリ派の人々が火刑にかけられて抹殺される前日)。
  • 福音書使徒書簡、章節に付けられた注釈
    これらの大部分を占めるのはパウロ書簡に関する注釈。
    コリント前書 (ラゲ訳):Wikisource
  • ベン・シラの知恵(旧約聖書外典中の最大文書。※ユダヤ教とプロテスタント諸派では外典、カトリック教会と正教会では旧約聖書に含める)に関する注釈
    シラ書:Wikipedia
  • ソロモンの知恵に関する注釈
    知恵の書:Wikipedia

ガーダムは書く。

キリスト教の源泉に関連するものは、多くの古典文献にも見られる。それはピタゴラスから、プラトンとプロティノスを経てポリュフィリィにまで広がっている。それはあまり有名でないイアンブリアカスやクリシッポスをも含む。これらの著作家に共通しているのは、それぞれの流儀でいずれも二元論者であったことである。ピタゴラスとプラトンは、誕生時、完全な魂が物質の中に閉じ込められ、その純化は輪廻を通じて成し遂げられると信じていた。プロティノスとその伝記作者のポリュフィリィは、カタリ派で言われているのと同じような創造の発出理論を表現していた。

以下の記事でわたしは「37年から100年頃に生きたユダヤの歴史家の伝記『フラウィウス・ヨセフス伝』(ミレーユ・アダム=ルベル著、東丸恭子訳、白水社、1993年)で見たように、ヨセフスの時代、ユダヤ教への改宗者は地中海世界、ローマでも増え続けていた。キリスト教は当初、そうしたユダヤ教に魅せられた異教徒にとって、与しやすいユダヤ教、割礼などのない敷居の低いユダヤ教と感じさせた側面があったようだ」と書いた。

また以下の過去記事では、イエスと関係があったと思われる「エッセネ派は(ブラヴァツキーのリサーチの結果が正しかったとしたらだが)ピタゴラス派といってよいくらいの集団で、また『熱烈な伝道者アショカ王以来の』仏教の影響が考えられる」と書いた。

ガーダムの描くカタリ派像は、わたしのこれまでのリサーチの結果と矛盾しない。

フラウイウス・ヨセフスは自著で当時のユダヤを三分していた三つの宗派について書いているが、前掲の伝記『フラウィウス・ヨセフス伝』に著者ミレーユ・アダム=ルベルの手でよくまとめられている。

それは福音書から受けるひじょうに一面的なユダヤ教の印象とは似たところのない各宗派の個性や違い、洗練された雰囲気などを伝えるものであって、それを読んだわたしはユダヤ教やユダヤ人に対する固定観念が打ち砕かれる思いがした。少しだけでもメモしておきたいのだが、長くなりそうなので、ノートを改めたい。

ここでわたしはフラウイウス・ヨセフスが『ユダヤ戦記』の中で書いた、エッセネ派の昇る太陽に祈りを捧げる習慣を再確認した。カタリ派は太陽崇拝と結びつけられることも多いからである。

それはマニ教と結びつけられがちだが、ユダヤのエッセネ派は太陽に対する祈りの時間を持っていたのだった。以下は『ユダヤ戦記 1』 (秦剛平訳、ちくま学芸文庫、2002年)278頁。

(エッセネびと)の神的なもの(「神的なもの」のギリシア語はト・テイオン)への敬虔は独特なものである。彼らは太陽が昇る前には世俗的な事柄についてはいっさい口にせず、太陽が昇るのを祈願するかのように、それに向かって父祖伝来の祈りをささげる。

ところで、中世ヨーロッパで、黄金よりも価値があり、これまで知られていなかったルートを用いた交易への期待を抱かせるものといえば、アレしかない。香辛料。

以下はJ・ギース、F・ギース『中世ヨーロッパの都市の生活』(青島淑子訳、講談社学術文庫、2006年)

とくに高価なのがサフランで、同じ重さの金と比べものにならないくらいの値段である。裕福な家の主婦なら、ごくわずかな量をこっそり蓄えているかもしれない。ショウガ、ナツメグ、シナモンなど遠くアジアから輸入される香辛料も、サフランと同じくらい高価だった。(66頁)

中世の食卓においては、甘味料は希少価値だった。(73頁)

中世ヨーロッパの人々が見たこともなかった器に入ったサフランに、シナモン、ジンジャー、砂糖をふんだんに使用した焼き菓子を子供たちに持たせられるなら、それは最強のアイテムになるだろう。

中世の彼らは高い技術で商品化された香辛料や砂糖がうなるほどある遠い異国を空想してみる。しかもその異国は子供を使節として立てることが可能なくらい、航海術が発達しているらしいとなると――。

交易の条件は、第一に洞窟に囚われている魔女を解放すること。 と最後の賭けに出る紘平(彼は、自分の国は「日いづる国」であり、信仰の自由と平和を何より尊ぶ国だと説明した)。

№93で、カタリ派は絶えたと書いたが、以下の本を読むと、その精神は受け継がれていたことがわかる。

フランス・プロテスタントの反乱――カミザール戦争の記録 (岩波文庫)
カヴァリエ (著), 二宮 フサ (翻訳)
出版社: 岩波書店 (2012/2/17)

カザミール戦争が何であったのかは、Wikipediに以下の説明がある。

カミザールの乱:Wikipedia 

カミザールの乱(フランス語:La guerre des Camisards)とは、1702年から1705年にフランス王国で起こったプロテスタント(ユグノー)の反乱。セヴェンヌ戦争(La guerre des Cévennes)とも呼ばれる。 フランス南部のセヴェンヌ山脈を本拠地として反乱は拡大、国王軍は完全鎮圧に3年を要した。

『フランス・プロテスタントの反乱――カミザール戦争の記録』は、指揮官カヴァリエの回想記。わずか2,000人の農民が25,000を超えるルイ14世の国王軍を敵にまわして、戦ったという。農民を蜂起させたのは絶望だった。その蜂起はレジスタンスの性格を帯びていた。

そして、迫害の大きさ――捕まれば、投獄されてひどい拷問の末にガレー船か絞首台――にも智恵を用いて溌剌と立ち向かう清新な気、充実した宗教教育、思いやりなどはカタリ派と共通したものだ。

読み始めてすぐに、カタリ派について調べる過程で知った土地の名――ラングドックが出てきた。

「しまいには彼らはわれわれの牧師を一人残らず逮捕するか追放したから、われわれは集会なしのままでいた。最後に逮捕された牧師はロマン氏で、彼は聖マグダラ祭の日に、集会から帰る途中につかまった」という、聖マグダラが出てくるページには付箋を貼りたくなり、そうした(図書館に返すときは、忘れないように剥がさなくては)。

カヴァリエは両親、特に母親から教育を叩き込まれたようである。母親は聖書を熟知しており、多数の祈祷書、論争書、説教集を隠しておいて、カヴァリエに読ませた。

聖書を読んでいるうちに、わたしは、ローマ・カトリック教会の教義と絶対に矛盾するいくつもの箇所にぶつかった。母は、それらの箇所について自分でよく考えなさい、と言った。そうやって母は、わたしの年齢と頭で可能なかぎり、プロテスタントの信仰の真実と教皇信仰の誤謬を、自分で発見できるようにしてくれたのである。

母親は彼女の信仰に従って子供たちを教育し、教皇教の誤謬を証明してみせた。家に説教にやってくる宣教師たちと宗教問題を議論して相手をやりこめたりしたために、父親共々ひどい迫害を受けることになった。

カヴァリエの記述から、カタリ派の祈り(カタリ派の「主の祈り」では「わたしたちの日々のパンを、きょうもお与えください」ではなく「わたしたちの物質を超えたパンを、きょうもお与えください」となっていた。※原田武著『異端カタリ派と転生』(人文書院、1991年)参照)や、グノーシスを想わせる教義を見出すことはもはやできないが、宗教教育の性格やそれがカヴァリエに与えた影響にはカタリ派を連想させるものがある。

ここで、カヴァリエによる前書から、カタリ派に触れた箇所を抜き書きしておこう。47~48頁より。

ここで、本書の語る史実が、狂信、迷信、迫害と闘うセヴェンヌの民の登場する痛ましい記録として唯一のものではないことを指摘するのは、たぶん無駄ではなかろう。セヴェンヌの民は、ルターやカルヴァンの宗教改革よりもずっと前に教皇庁の誤謬と腐敗に異議申し立てをしたことで有名な、かのアルヴィジョアとヴァルド派の子孫である。彼らは使徒たちの時代から同じ教義と同じ礼拝を守り抜いて、かつて一度も改宗したことがないことを誇りにしていた。事実、数多くの状況からしてこの主張はごくもっともである。……(略)……
 先祖と同じ貴い信条のために苦難に耐え、財産を失い、祖国からの逃亡を余儀なくされたわれわれにとって、彼らより恵まれているのは、ローマ教会への服従から脱して、真実にして純粋なキリスト者の自由の原則を奪回した信仰上の兄弟たちのもとに、避難場所を持っていることである。……(略)……
 われわれは不可謬性を求めないのだから、間違っていないのはわれわれだけだ、と独断的に宣言しないことにしよう!
 われわれは聖書を信仰の唯一の掟としているのだから、これに反する他の掟は立てないことにしよう!
 われわれは、われわれの宗教の最高の性格は愛である、と宣言している以上、どうかわれわれの確執が偏見と固執だけに由来するのでないことを!

注に、アルビジョワは南仏カタリ派の地方的呼称とある。カヴァリエは自分たちをカタリ派とヴァルド派の子孫だと明言しているのだ。

わたしはここで、現代フランスを代表するアナール学派の中世史家ジャック・ル・ゴフの『子どもたちに語るヨーロッパ史』(前田耕作監訳、川崎万里訳、ちくま学芸文庫、2009年)を思い出した。

そこでは「異端はヨーロッパ中にいたのですか」という問いに対して、以下のような説明がなされている。233頁。

 そうですが、十三世紀から十四世紀のドイツ、フランス南部、北イタリアでとくに多かったのです。これらの地域ではたびたび異端として有罪判決が下され、火刑が頻発しました。最も有名なのは〈カタリ派〉で、みなさんも耳にしたことがあるでしょう。カタリ派はフランス西部のトゥールーズ地方、アルビなどに共同体をつくりました。彼らは自分たちだけが罪を免れており、〈不浄なものである〉一般信徒の罪は教会では清められないと考えていました。教会はフランス南部の異端派にたいし、十三世はじめにアルビジョワ十字軍を送りました(カタリ派のモンセギュール城は陥落し、城を防衛した者たちは火刑に処されましたが、城は残って有名になっています)。

このカタリ派観の違い!

「不思議な接着剤」(2)で描くべき女性がマグダラのマリアではなく、『マリア福音書』を造形化した女性でもなく、神秘主義者であるが、無力な一般人であるべきだという確信がひらめいた。

『異端カタリ派と転生』(原田武、人文書院、1991年)における以下の記述は、知的、清浄、スタイリッシュであったカタリ派の凋落を物語るようでもの悲しい。

ルネ・ネリは、最終段階でのカタリ派信仰は農民のなかでもとりわけ女性によって担われ、彼女たちの社会への不平不満と結びつく一方で、妖術的なものへの傾斜を深めがちであったと述べる。

魔女は、こうしたカタリ派末期の女性を戯画化したものだともいう。

異端カタリ派は、都市部における富裕層の知識人たちによって担われ、栄えたが、弾圧されるにつれ、それは農村部に移り、だんだん迷信化、妖術化した。どんどん俗化を強めていって、ついに絶えたということである。

わたしはその最終段階が近づいた頃のカタリ派の生き残りで、自らの無力を噛みしめつつもカタリ派の教義と古文書(カタリ派が持ち出したとされる宝については、多額の金銭から聖杯に至るまで諸説あるが、古文書であったと想像したとしてもそうおかしなことではない)を守り抜こうとした人々のこと、カタリ派という一神秘主義思想の残照であれば、書ける気がする。

洞窟の中にいたのは、そんな生き残りの一人であったに違いない。子供たちは古文書が安全な場所に隠されるのを助けるのだ。

マグダラのマリアに関する古文書がどんな人々の手で守り抜かれたかはわからないながら、そのような人々がいなければ、わたしが現代日本の田舎町で、生々しくも感動的な『マリア福音書』を目にすることはありえなかった。

神秘主義者の一人として、わたしは無関心ではいられない。当時生きていたら、間違いなく、わたしはカトリックよりもカタリ派を支持しただろう。火炙りになることがわかっていても、関われただろうか――と自らに問いかけるのは恐ろしい。

カタリ派はあくまでモデルであるから、別の架空の名に変えたほうがいいだろうか? 

※『不思議な接着剤(1) 冒険への道』――冒険前夜の物語で、子供の日常生活に不思議な出来事が迷い込むお話――は、間もなく電子出版します。

『不思議な接着剤 (1)冒険への道』の表紙です。

絵を担当してくださったのはyomiさんです。

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サイト「足成」から写真素材をお借りして作成した最初の表紙は内容との食い違いが気になっていました。(2)の表紙だといいかもしれませんが。

yomiさんの絵は、時間旅行に入っていく前の変わった出来事を描いた(1)には合っていると思います。

yomiさん、貴重な絵をありがとうございます。

まだ目次やまえがきが残っていますが、公開までにそれほど時間はかからないと思います。

小学4年以上の読者を想定していますが、現実的に考えると、読んでくださるのは大人でしょう。

(2)では冒険活劇といってよいような場面も出てきますが、この(1)ではむしろ、学習教室を経営している母親をそれとなく助けて暮らしている兄弟と、彼らと幼いころから仲よくしている少女――といった子供たちの微妙な心理の動きに焦点を当てた児童小説になっていると思います。

過去記事で書いたかもしれませんが、わたしの両親も隣の家の子のご両親も共稼ぎだったので、わたしと妹、お隣の家の姉弟の4人で、それは楽しく、時には心細いことになったりしながら、助け合って暮らしていた日々がありました。

母親はどちらも電話局に勤めていて、夜勤、宿直がありました(母親たちはよく一緒に出勤していました)。わたしの父は外国航路の船員で、留守が普通のこと。家政婦さんが来てくれていたとはいえ、いつも彼女がいてくれるわけではなく、何でも相談できるというわけでもなく、両親が家にいなくて困ったことがよくありました。

隣の家の子のお父さんも仕事やおつき合いで遅いことがあったりと、子供たちで助け合う場面は結構あったのです。

例えば、大人たちが不在のときにひどい雷が鳴ると、どちらかの家に駆け込んで、薄暗い中、4人で布団に潜り込んだりね。妹と2人だと本気で怯えるだけでしたが、4人揃うとキャーキャーいって、怖いのも楽しくてたまらないようなところがありました。

おなかが空くと、皆でラーメンを作ったり、フライパンでソーセージを焼いたりして、腹ごしらえ。

作品に登場する3人の子供たちを描くに当たっては、自身の子供のころの思い出や、子育てしていたころの記憶、公文教室で働いていたころのことなどが参考になっています。

この(1)があってこそ、(2)での時間旅行が生きてくると考えています。

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